遥かなり昭和

第二章 田村町大場理髪舗
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田村町の店が吹き抜けに造ってあるため、普通なら三階建てのところを二階建てにしてあったことは、すでに述べた。
 父はこの二階を貸し事務所とした。店は料金も高く、内外貴顕の客を迎えたとはいえ、超一流の設備をそなえた店であるから、最初から商売としてやっていくのは容易ではない。そこで使っていない二階を貸事務所として、入口も別につけたのである。
 広さは三十畳ほどもあっただろうか。父が貸事務所として間もなく、最初の借り手が現れた。女優としての名声に加え、夫の川上音二郎と共に帝国女優養成所を設立し、帝劇女優の育成を始めていた貞奴である。どのくらいの期間貞奴がかりていたかは定かではない。
 この貞奴の縁であったのだろう、松竹の関係者が知るようになり、夏川静江と水谷八重子たちが稽古場として借りるようになった。ちょうど旗揚げをするところであった。
 帝劇で初めて少女歌劇をやって大評判を呼んだのは、ご記憶にある方もあるだろう。東京における少女歌劇のはしりだった。その稽古をする場所がないというので、市電で父の店の二階に通ってきていた。稽古したのはメーテルリンクの「青い鳥」──
 チルチルとミチルの役名で馴染みの演し物である。
 残念ながら、私自身はその間の経過は知らない。私の姉などはそういう世界に興味を持っていたからであろう、稽古をしていたのは知っていたようである。とはいえ、今のように有名になってるわけではないから、稽古現場を見ても私にはよくわからなかったかもしれないが・・・・・
 このグループが部屋を借りていたのは、そう長いことではなかったらしい。一年か一年半ほどで帝国劇場が完備したため、そちらに本拠を移していった。
 その後に部屋を借りたのが、大野伴睦さんだった。この時期は私がもう小学生であったので、よく覚えている。
 もともと父は二階を貸し事務所にしようと思い立ったときに、政治家に借りてもらおうとおもったようである。
 というのも、田村町の店は地の利がよかった。今の新橋の第一ホテルのほぼ隣に政友会があって、やはり憲政会もすぐ近くであり、うちの店には政治家の方々がしょっちゅう頭を刈りに来ていた。大野さんは政友会の院外団〈新交倶楽部〉の事務長であった。
 大野さんはまだ若く、無名に近かった。明大在学時代から雄弁で鳴らし、一人で事務所を切り盛りなさっていた。代議士が来ると自分でお茶を出したり、奥さんが持って行ったりしていた時代である。
 この二階にあった貸室は、炊事施設も調って住めるようになっていた。それで〈新交倶楽部〉事務長時代は、大野さんはここにご家族で住んでおられた。長男とお嬢さんがおられたように記憶している。まだ小学生だった私は、よく膝にのせてもらい、可愛がっていただいた。
 ところで陛下の理髪店のほうだが、新店舗が竣工してほど遠からぬうちに予想していなかった変化が起こった。美容部門の開設である。これは父の計画にははいっていなかった。そのいきさつはこうである。
 うちの店は華族と並んで内外外交官の客が多かった。外交官は決まって奥さん連れでやってくる。あの頃、日本では奥さんは表に出て歩くものではなかったし、日本の男も奥さんを連れては外出しなかった。ところが外交官は奥さんを同道した。まだ鹿鳴館時代の華やぎが名残をとどめていた時代である。
 奥さん連は、待ち合い室で待つことになる。
 あの頃、今のようにテレビがあるわけでもない。蓄音機はあったが、そんなものを鳴らすわけにもいかない。せいぜい雑誌ということになるが、女の人が読むものだと、「婦人倶楽部」や、「婦人画報」それに「皇帝画報」もあった。だが、そんなものは自分の家にもあるし、「皇帝画報」などは、穴のあく程みている。ご亭主が頭をやっている一時間程の間、退屈で仕方がない。
 そこで、待っている間に、奥さん達もなにかやってもらったらどうかということになった。最初のきっかけは、ある伯爵の奥方が,店を手伝っていた母に「ちょっとあなた何かできないの。頭をまるめるとか・・・」と話しかけたことであるらしい。
 母は子供の時分から人の頭をいじるのが好きだった。それで店に手伝いに来ていたが、自分ではまだ美容をやろうとは考えてもいなかった。あくまで、タオルをゆすいだり、床を掃いたり、店の手伝いという気持ちであった。
 ところが、こうして頼まれ、髪を結ってあげたら喜ばれた。それなら、ついでにシャンプーもして欲しいというのでやって上げると、これが気持ちがいい。その評判が待合室の奥さん連に口から口に伝えられ、いつか美容も正式に始まった。うちの店が〈大場高等理髪舗婦人部〉の看板を掲げたのは明治四十三年、新店舗を竣工して二年後のことである。
 そのうちに、太田菊子さんという「婦女界」編集長が母を気に入ってくれた。この人は初めて女性で雑誌の編集長になったというので、新聞にも載った。その人が母に新しいヘア・スタイルを考案するように勧め,それを自分の雑誌に紹介してくれた。すると今度は,それが「都新聞」で採り上げられ、大評判になってしまった。
 私が覚えているのは,美容のお客さんが道路のに並んで、お巡りさんが交通整理に出ていたことだ。ちょうど、私が小学校に入ったばかりの頃であっただろうか。
 うちの店は、理髪の客は馬車でいらしたり自動車に乗って来られ、馬車も自動車もすぐ帰してしまう。ところが、美容室の客は皆歩いてくる。芸者さんなども新橋から歩いてきて、店からはみ出した客が道路に長い列を作ってしまうのである。
 あの頃の母は本当にとく働いたものだと思う。朝は五時半に起きて、朝ご飯を食べるのが九時半から十時半頃だが、これも座っている暇がなく立ったままだ。そして昼の二時か三時頃にまたちょっとつまむぐらいで、夜の十一時頃まで仕事をする。だから私たち子供は、日曜以外は母と一緒にご飯を食べることがなかった。
 あの時分、店は八時からだった。私が中学に行く頃になると九時になったが、理髪のほう朝はほとんど客がなく、たまに外交官が見えるくらいである。
ところが美容のほうは、八時からだというのに六時頃から客が押しかけてくる。やむを得ず、母は、早朝から仕事をした。当時、よそになかったからだろう、大変な繁盛ぶりであった。うちの評判をきいて、美容は儲かると、あの時分、どんどん美容をやる人が出てきた。柳の下のどじょうである。
 この美容部門は当初、一階を使っていた。一階には吹き抜けになった二十三坪の理髪室のほかに、入浴室があった。
 父は店を造るときに、大理石でできた洋式のバス・タブをアメリカから輸入していた。バス・タブのまわりはやはり大理石を使って、それは豪華なバス・ルームにして、大評判だった。そして希望する客は、ここに案内していた。
 この入浴室には四畳半ほどの更衣室がついていた。美容が始まると、父はこの境を区切って、更衣室を美容室に変え、1台で一人ずつ髪を結うようにしていた。そこで、椅子に腰掛けたままシャンプーできるように改造も加えた。
 この時分はまだバス・タブのほうも使っていたようである。入浴は男女共にできるが、あの当時は女性が外で風呂に入るわけはなかったから、使ったのはもっぱら男の客であった。
 しかし、そのうちに美容の客が多くなると、バス・タブを取り払って、入浴室全体を美容室に改造してしまった。そして、三台の洋髪の椅子のほかに、シャンプー、フェイシャル、マニキュアの椅子を別に作った。
 こうした美容の仕事は、すべて母が陣頭指揮に立って、自ら手を下した。技術は父から学んだようである。
 父は上海のスミス店で働いたことがある。スミス店は上海で一番大きな理髪店で、理髪のほかに美容室も備えていて、スミス夫人がやっていた。父自身はそちらを専門に勉強したわけではないが、スミス夫人の仕事ぶりはいつも目にしていて、フェイシャルやマニキュアも知らないわけではなかった。フェイシャルはさらに横浜でキャンブル氏から本格的に学んだ。それを母の静子に教えたのである。
 ちょうど、女性の髪が丸髷から洋髪に変わろうとする時代であった。
 私が小学校五、六年生であっただろうか。よく太田菊子さんがやってきて、夜遅くまで、ああいう風にしたらいい、いやこちらのほうがいいと、熱心に話し合っている声を耳にした覚えがある。
 あの時分、母が考案した髪型はずいぶんあった。出来上がると、太田さんが名前をつけてくれた。
 記憶しているものに、「静花巻き」がある。これは母の名の静子と母の弟子として働いていた、親戚の子の花子の一字ずつを取って、付けた。どんな髪型であったか、あまり興味のなかった私は覚えていないが「アルプス巻き」と呼んでいたのは文字通り大きな山型であったように思う。
「耳隠し」というのもあった。これは両耳のところに束ねる髪型で、こればかりは太田さんでなく、父が命名した。もっとも、後に伊東深水さんが「レシーバー巻き」と呼んで、こちらの名のほうが有名になってしまったが……。
 こうして、婦人部すなわち美容部門は大変な勢いで伸びていった。女性の美しくなりたいという願望は今も昔も変わらない。それに従い、一階の美容室では手狭になった。そこで、ちょうど二階の貸部屋が空いたのを機に、そこを改造して美容室を二階に移した。二階は普通の髪をやるところにして、旧来の一階部分は婦人部の洗髪、毛染め、マニキュア、フェイシャルに限るようにしたのである。
 二階はさらに発展する。今度は六畳の和室を鏡貼りにして、花嫁やお見合いのお嬢さん方のために、着付け室とした。
 いつのまにか、婦人部のほうが理髪室より規模も大きくなってしまった。多いときは婦人部のほうだけで従業員が二十人近くにもなったことがある。
〈大場〉の名を世に轟かせたのは、あくまで理髪のほうであったが、婦人部の発展も目をみはるものがあった。そちらを支えたのは母静子であった。その働きが父秀吉の事業に大きく貢献したことは改めて言うまでもない。

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