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父子二代の天皇理髪師
遥かなり昭和
大場 栄一
第一章 本格西洋理髪師 大場秀吉
2

 秀吉は横浜で生まれ育っている。当時、横浜は神戸や長崎と共に外国人も多く、異国情緒豊かな町であったし、秀吉自身、貿易商や英国人経営の商店でも働いていた。それでも、「東洋一の国際都市」と呼ばれていた上海は、横浜の比ではなかった。船の上からこの大都会を初めて眺めた感動はいかばかりであったことだろうか。
 しかし秀吉には、珍しい町の風物に眺め入っている余裕などなかった。上海に上陸してすぐ、叔父に連れられて行った理髪店で、弟子入りを断わられてしまったのである。
 フランス租界の繁華街に店を構えていた理髪師はスイス氏と言って、英国系アメリカ人であった。山本仙吉がスミス氏と懇意であったのは事実であったが、スミス氏は秀吉を断わって、代わりに弟子入り先として日本人理髪師長島新太郎氏を紹介している。
 その行き違いというのは、こうではなかったかと思う。スミス氏は見習いの人間が欲しいのは事実であったが、山本が連れて行った甥はまだ十六歳で英語もできない。技術もゼロで、言葉が通じないとあれば、スミス氏も引き受けようがなかったのであろう。その証拠に、五年後、一通り技術を習得し、英語も話せるようになった秀吉をスミス氏は自分の店に迎え入れ、大変目をかけ、可愛がり、技術を伝授している。
 甥を預かってもらえると一人合点していた山本はさぞ慌てたことだろう。早速、その足で紹介された長島新太郎氏の店を訪ねている。こちらの店は、フランス租界からガーデン・ブリッジを渡った共同租界にあった。
 この長島新太郎氏は長崎出身であったが、どこで理髪の技術を学んだかはわかっていない。癇性で気性が激しいところがあり、後に日本領事に対して公式の席で暴言をはいて上海を追放されるようになるが、ともかく腕はよく、秀吉が訪れた当時は外人客で盛況だったようである。
 幸い、秀吉は長島氏の店で預かってもらえることになった。
 主人の長島新太郎氏は、見習いを始める少年に、次のような心得を言い渡した。
 一、朝五時三十分には必ず起きて飯を炊き、主人や職人たちが顔を洗うための湯を沸かすこと。
 一、その間に、階上と階下の便所掃除を済ますこと。手は必ずしっかり洗うように。
 一、飯が炊き上がったところで職人たちを起こし、まず主人とお内儀、次いで職人たちの給仕をすること。
 一、職人たちが食後の茶を飲んでいる間に、店の表戸を開け、床の雑巾がけをしておくこと。
 秀吉自身の朝食はその後で兄弟子の許しを得てから、とるのである。これは言うまでもなく、一日の仕事のほんの一部にすぎない。店に出て床を掃いたり椅子を磨くのはもちろんのこと、客用のタオル、ケープから職人たちの白衣、ワイシャツさらに下着まですべてを洗濯するのも秀吉の仕事であった。洗って乾かしてからは火熨斗をかけなければならない。夜の食事が終わってからは風呂を沸かして、先輩の背を流して、最後に掃除する・・・。
 小僧さんがこうしてすべての雑用を務めるのは、戦前までは格別珍しくはなかったかもしれない。が、この店では主人の厳しさが常軌を逸していたようなところがある。
 秀吉は後に、こんな様子を記している。
 主人の長島氏は朝、店に出てくると、ストーブの前で煙草を点け、煙をゆっくり吐き出しながら、あたりを上目づかいに眺める。ほんの少しでも掃除が行き届かないところがあると、ジーッとそこを見ているが、何も言わないで引っ込んでいく。そして三十分後、再び店に出て、そのままになっていれば、そこを指さして弟子をゲンコツでいきなり殴りつけるのである。
 秀吉はそれに気付いて以来、主人が店に出てくると、忙しく立ち働きながら、視線の行方から目を離さないようになった。そして次に主人が来るまでに、そこを綺麗にするように心掛けたという。
 実は店には何人も弟子入り希望者は来ていた。当時、上海は内地よりはるかに開けていたから、上海に行けば何とかなると考えて渡ってくる青年は多かった。ところが、主人がこのように余りに厳しく細かいので、次々に逃げ出してしまう。秀吉がすんなり受け入れられたのも、そんな事情があったからだろう。ところが、秀吉はくじけなかった。その掃除事件に見られるように常に努力を怠らなかったからであると思う。
 丁稚奉公時代のもう一つのエピソードに、こんなものがある。このことについて、秀吉は後にこう書いている。
<・・・塩と湯と、ふやけた焦げ飯には閉口したるにより、それ故、朝起きるのを五時に繰り上げたり。
 先ず、便所などの掃除をして、竃の火を点ける。次に急いで洗濯をする。飯炊き上がりかける頃には、竃に付き居て、コゲつくらぬよう、火加減に苦心惨胆せり・・・>
 この焦げ飯については説明を要するだろう。秀吉が行くまでは、長島家の釜には焦げが厚く出来ていて、一番最後の小僧が食べる番になると、焦げしか残っていない。そこで、お湯を注いで塩を入れればどうにか食べられるということになり、これが「伝統」になっていた。
 それを見て、秀吉は焦げをこしらえないようにするには、どうしたらよいかを考えた。炊き上げる間にほかの仕事を済ませておけば、時間の無駄にはならないだろうとも考えたのである。
 物事をすべて合理的に考えていくのは、秀吉の持って生まれた性格のようである。ともかくこのときは、「秀が来てからは、お焦げを食べなくてもよくなった」と、先輩たちから感謝されるようになった。食の恨みは恐ろしいの言葉があるように、食べ物が人間の心証を左右するのは昔も今も変わらない。
 この奉公時代のことは、私自身も父の口から聞いたことがある。一番辛かったという洗濯のことである。
 当時はもちろん電気洗濯機などなかったから、盥に洗濯板を立てかけ、手で洗った。しゃがみこむ姿勢で力を入れて揉み、押して洗わなければならないから、しばらく洗っていると腰が痛くなる。洗濯物の量も一般家庭の比ではないから、終わってからどうやら立ち上がることはできるが、何かにつかまらなくては歩けなかったという。
 そのとき、こう思ったそうである。
 洗濯を実際にしてみるまではこんなに辛いとは知らなかったが、普通の家庭では主婦がこれをやっている。来る日も来る日も、この辛い仕事に耐えているのかと考えると、改めて自分の母を、天下の母を尊敬するようになった、と・・・。
 秀吉は自分の口からは主人であった長島新太郎氏の悪口は一切言わなかったが、現在の私の眼から見ると、長島氏に欠けていたのは、そういう思いやりの心ではなかったかと思う。
 それでも秀吉の真面目な働きぶりは、徐々に主人の厳しい心を溶かしていったようだ。
 入店五か月目のことであった。
 ある夜、秀吉は主人の店に呼ばれた。いよいよ、ゲンコツを食らう番かと一瞬蒼ざめたという。自分では一所懸命にやってきたつもりでも、人間にはどこか落ち度はあるものである。主人の短気を日々見てきただけに、秀吉は覚悟して進み出た。
 後に、このときのことを、こう書いている。
 <主人、我を座らせて言う。汝、入店してより皆々早起きになり、掃除行き届き、入口の外まできれいになりたる。汝の致すところなりと職人共より報告あり。
 我、奉公人を褒めしこと無かりたるも、感心な奴ゆえ、褒めとらす。益々精を出して勤めよ>
 この言葉と共にレーザー(西洋剃刀)一挺を与えられた。五か月間の奉公振りを認められて、初めて自分のレーザーを持ち、それを研ぐことを許されたのである。


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