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父子二代の天皇理髪師
遥かなり昭和
大場 栄一
第一章 本格西洋理髪師 大場秀吉
3

 理髪業に限らず、あの頃は技術は目で盗んで覚えるのが常識であった。
 まだ、どの職業も養成学校というものはなかったし、これは現在でも言えることだが、技術は教室で教わってマスターできるものでもない。また、当時の職人は弟子に対し、手に手を取って親切に教えてやろうとは考えなかった。
 秀吉の場合もレーザーを与えられたものの、研ぎ方一つとってみても、兄弟子の研ぎ方を見て、自分で学んでいかなければならなかった。それに朝の飯炊きから夜の風呂掃除まで、秀吉に与えられた下働きそのものは変わらない。
 長島店では、秀吉の後に弟子入りする者は当分なかった。修業の厳しさを伝え聞いて敬遠されたと考えることもできるが、実際は秀吉が一人で十分役割をこなしていたから、必要はないと考えたのだろう。
 徒弟制度では、一日でも弟子入りが早いほうが、兄弟子としては絶対である。一年が過ぎ、二年になっても、秀吉は一人で主人夫妻から兄弟子たち全員の世話を続けた。
 当時、上海の長崎店では、今日では想像もできない装置があった。「ミシン・ブラシ」と呼ばれ、天井に鉄棒を差し渡し、それに何本かベルトが掛け垂らしてある。
 何をするかといえば、このベルトに回転式ブラシをはめて頭皮のフケを取り除くのである。現代人にとっては笑い話かもしれないが、今日のように洗髪の習慣も、また、良質のシャンプーやリンスもなかった時代に、この装置は大変重宝がられた。内地ではまだなく、上海でも他にスミス店をはじめごく限られた店にしかなかった。
 後にこれは電動式になるが、当時はまだ手で廻していた。ベルトの音が鳴るくらい高速で廻さないと効果がないから、かなりの重労働である。これを廻すのは、もちろん新参者の秀吉の役割だった。
 当時の秀吉の一日を想像してみると、大変な日課であったようである。
 長島店では、営業時間は朝の七時から夜の八時までだった。客が入っていれば、閉めるのは九時近くになるだろう。店仕舞いをすると、先輩には寛ぎの時間となるが、秀吉には次から次に仕事が待っている。風呂を沸かす。洗濯にアイロンがある。先輩の背中を流してやらなければならない。秀吉は時間を切り詰めるために、兄弟子の若い人と一緒に入浴させてもらうようになったのだが、それでも風呂掃除を終えると夜中の一時になってしまう。
 布団に入る前には、英語の独習もしていたようである。当然、レーザーを与えられてからは、一人ひそかに膝頭や足のすねに当てて、試し剃りをくりかえしただろう。
 それでいて、朝は五時に起きるのであるから、睡眠時間は三、四時間しかない。よくやれたと感心するが、若さと同時に一日も早く技術を習得したいという情熱あってこそであろう。
 ともかく、手習いをしようにも、下働きに追われて余裕がない。当時、秀吉はよく風呂を焚きながら、右手にレーザーを持ち、裾をたくし上げて膝頭を出し、客の顔を想い浮かべながら刃を滑らして研究を続けたという。
 秀吉はレーザーを自分の膝頭でなく、生身の顔に使ってみたかった。そこで、兄弟子たちに、自分の顔を練習台に使ってくれるように申し出た。
 自分のほうから顔を貸しておけば、三度に一度いや五度に一度でもいいから、先輩の顔を剃らせてもらえないだろうか―。こんな魂胆があってのことである。
 挙句に、こんなことになる。秀吉自身が記した言葉によると―。
 <一夜に十回以上も剃られれば、顔の膚ヒリヒリと痛み、湯が沁みて、洗うことも笑うこともならなくなりたり>
 もっとも、それは秀吉一人ではなかったらしい。右の文章に続いて、
 <こわばりたる顔の膚を押さえて、互いに相手を指さしてアハアハと声のみ笑いたるものなり>
 とあるから、兄弟子たちもあまり変わらなかったのだろう。当時、弟子たちはこうして切磋琢磨していたようである。
 立派な理髪師になる資格は何か、と問われれば、平凡な言葉に聞こえるかもしれないが、私は「努力」と答えたい。
 何事であれ、途中であきらめてしまったら、成功はおぼつかない。いくら器用な人間でも、自分の技術に天狗になったら、必ず失敗する。秀吉を見ていると、決して器用な人間ではなかったが、大変な努力家であった。他人が三やるところを五、勉強するという姿勢を終生持ち続けていたが、それはこの上海における修業時代に培ったのではないかと思う。
 もちろん私が生まれる遥か前のことであるから、後に父から聞いたり、父の書き遺したものから推測するしかない。が、後の大場秀吉の基礎を築いたのがこの修業時代とすれば、それを成し遂げさせたのは、顔の膚をこわばらせてなお、兄弟子に顔を向けるのを止めなかった熱意と努力そのものではないかと思うのである。
 その努力が実ってか、二年ほどすると秀吉は理髪をさせてもらえるようになった。これは当時としては、早いほうであったようだ。
 長島店は顔剃りがうまいと評判を呼んでいた。そこで、租界にすむ外国人から、顔剃りに来てくれと声がかかる。あの時分、顔は自分では剃らなかったのである。
 毎年、長島店からは二、三人が各屋敷へ出張に出た。相手は実業家であったり、外交官であったようだ。それを店が開く前に済ませたのである。
 秀吉も抜擢され、屋敷を廻るようになった。ただし一番若い秀吉の場合は、朝のご飯を炊いてからお内儀さんを起こし、出張に出て、戻ってきて主人にお金を渡し、初めて自分も箸を手にした。
 いかにも秀吉らしいと思ったのは、何軒か出張先を廻るのに、必ず一軒が終わると店に戻って主人にお金を渡して報告し、また次の屋敷に向かったという。これは客に掛けるケープやゴム皿を取り替える必要もあったのだろうが、何軒かまとめてできないこともなかったはずだ。それを敢えてしなかったところは、秀吉の甲斐性というものであろう。
 実際に父は、とても几帳面で、物事をいい加減に済ますことが我慢できない人間であった。後に私が店を手伝う頃になってからだが、父が実に綿密に帳簿や記録をつけていることを知って驚いたことがある。他人に借金をすれば、自ら利息計算をして、返済期日を一日たりとも遅延することはなかった。また、店の若い者が借金を申し込むと、同じくきっちり利息を取った。もちろん返済が遅れようと、取り立てるようなことはしなかったが、秀吉のこうした態度は、当時の職人たちには誤解を生むこともあったようである。
この合理精神が持って生まれたものか、あるいは上海という外地の生活で見についたものかはわからない。が、どんぶり勘定が大手を振るっていたこの業界、ことに戦前においては、秀吉の存在は稀なものではなかったかと思う。
 ところで店主の長島新太郎氏であるが、前にちょっと書いた上海追放事件だが、秀吉の上海修業時代に起こっている。
 ほれは秀吉が直接目撃した訳ではなく、さまざまな噂が飛び交ったであろうから、真相はわからない。はっきりしているのは、暴言をはいた相手が当時の上海領事であった珍田捨己伯爵であったことだ。
 珍田捨己氏は後に大正十年、東宮殿下の御渡欧に当たって供奉長を務めている。今で言えば首席随員である。帰国後は皇后宮大夫、続いて侍従長に就任されている。昭和天皇がこの老臣をあたかも慈父のごとく労わられておられたことは有名である。
 秀吉は一介の理髪師でしかなかったが、御渡欧を機に陛下の御用を始め、珍田伯爵が侍従長を辞任されるのと相前後して陛下のお勤めを終えていることを考えると、つくづく運命というのは不思議なものだと思う。
 もちろん、当時の秀吉にこの運命の糸が見えていたはずはない。店主の追放は弟子達全員に衝撃であっただろうが、上海でスミス店と並んで繁盛していた店であったから、すぐ新しい経営者が現われた。新たな店主となったのは、スミス店の経営にも参加していた坂本という職人だった。
 理髪店では、理髪台の受け持ちが決まっている。一番から始まる理髪台は店における理髪師のランク付けであり、台を持たせてもらえるのは一人前の理髪師と扱われた証拠でもある。新店主は職人たちの腕を試させ、新しい受け持ち順を発表した。
  一番椅子─坂本店主
  二番椅子─生川亀太郎
  三番椅子─渡辺秀吉
 兄弟子の生川氏は同じ横浜の出身で、なにかと秀吉の面倒を見てくれた。後に秀吉が初代天皇の理髪師を辞任する際にはすぐこの兄弟子を推薦し、生川氏が二代目の天皇の理髪師となっている。それだけ恩義を感じていたのであろうが、その腕は定評であったから二番椅子も当然であっただろう。
 文字通りの大抜擢は秀吉であった。上海に来て、見習い修業に入って三年半にして、兄弟子達を追い越し、理髪椅子を預かるまでになったのである。
 椅子を預かるようになっても、それだけで完全な一人前と言う訳にはいかない。理髪の修業はもっと奥行きの深いものである。が、それまでと違って、俸給が正式にもらえる地位に就いたのである。
 長島店は以前から外人客が多かったが、新しい店主に替わってからは外人客でも上流階級の客が増えていった。
 理髪師の修業が理髪技術の習得にあるのは言うまでもないが、お客様とのコミュニケーションも大変大事なことである。秀吉は後に自分の店を始めると、顧客の扱いを非常に重んじた。父がお客様に見せる顔の素晴しさはどなたも、口を揃えて誉めて下さったものである。
 これは恐らく上海で西洋人ことに上流階級の客を迎えていたからではないかと思う。言葉一つにしても、英語であれば自然に<キングズ・イングリッシュ>を口にするようになる。何よりも、教養に裏打ちされた人格というものは、目に見えない形で理髪師にも伝わってくる。理髪師にとって、そうした立派な客を迎える店で働くことほど、よい勉強はないのである。
 秀吉の給料は七円五十銭であったが、チップ収入が六十円から八十円にもなったという。そうした収入もさることながら、理髪師をめざす秀吉にとって上海という土地おどふさわしい修業の場はなかったであろう。


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