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父子二代の天皇理髪師
遥かなり昭和
大場 栄一
第一章 本格西洋理髪師 大場秀吉
4

 明治三十一年、渡辺秀吉は上海を発った。内地に戻って兵隊検査を受けるためだった。
 上海の修業生活は六年に及んだ。最後の一年余りはスミス店で仕事をし、店主のスミス氏からは大変信頼されていたらしい。上海を去るに当たって、兵隊検査で軍隊にとられることがなければ、上海のスミス店に戻る約束をしていた。
 かつて理髪技術はもちろん、英語の単語さえろくに知らなかった少年が、今では外国人客相手に堂々と対応し、「ヒデ」の愛称で指名が殺到する青年理髪師に成長していた。スミス氏が秀吉を呼び寄せようとしたのも、店の後継者にしようと考えていたからであるらしい。
 兵隊検査は普通数えで二十一歳である。十二月生まれは一年遅れとなるので、数えの二十二歳の十二月までに受ければよかった。前にも述べたように、秀吉は戸籍焼失の際の誤記で、実際の年齢よりも二歳若く戸籍に記されていた。この年、実際の年齢は満で二十二歳を迎えるのだが、そうした行き違いはあの時分は往々にしてあったようである。
 結果は甲種合格であった。ただし、時あたかも日清戦争が終わった後であったから、兵隊の数は余っていた。甲種合格者のうちから兵役に就く者は抽選で選ばれ、秀吉はいわゆる<クジ逃れ>で軍隊に行かなくても済むようになった。
 秀吉は横浜に住む両親と六年振りの水入らずの時を過ごし、東京見物を愉しんでいる。また、伊勢詣りにも出かけている。六年前、青雲の志を抱いて上海に渡り、血の滲むような努力でようやく理髪師の座を手にした秀吉にとっては、故郷に錦を飾る思いであっただろう。
 しかし、輝かしい休暇もほんの一時でしかなかった。秀吉にはスミス氏との約束があった。上海へは兵隊にとられなくなった旨、手紙を出していた。スミス氏は秀吉が来るのを、首を長くして待っているだろう。
 上海へ渡るには、横浜から船に乗り込むより、長崎まで汽車で行ってそこから船に乗るほうが早い。ちょうど長崎には、上海の長島店で秀吉の兄弟子だった生川亀太郎氏がいた。生川氏は父親の病気で秀吉よりも早く上海から引き上げ、長崎で理髪店をやっていたのだった。
 かつての兄弟子に挨拶してから上海に帰ろうと思っていた秀吉は、生川氏から思いがけない知らせを聞かされた。上海に訪ねようとしていたスミス氏が、この長崎に来て、理髪店を開いている。そして生川氏のところに、しきりに秀吉の消息を問い合わせてきているという。
 いろいろな話を総合してみると、どうやらこういうことであるらしい。スミス氏が英国系アメリカ人理髪師であることはすでに述べたが、スミス氏と同じく美容技術を持つ夫人との間には、跡取りはいなかった。スミス夫妻は秀吉を我が子同然のように可愛がり、店を秀吉に継がせようと考えていたが、秀吉が日本人であることを考えると日本で開業させたほうがよいと考えたのだろう、上海を引き払って長崎に来てしまったのである。
 どうして秀吉の不在中、そのような行動に出たのかは謎である。秀吉の帰りを待ち切れなかったのか、あるいはそれが秀吉にとってよかれと思い込んでしまったのか。
 ともかく、スミス夫妻と秀吉は長崎で再開を果たした。スミス氏は秀吉にこう言ったことだろうと想像する。
 ヒデ。私らはもう引退する。私はもう君に教えることはないし、君はどこでも通用する理髪師だ。どうか、この店を譲るから、もり立てていってくれ−。
 有難い申し出だったが、秀吉は首を振った。恐らくは、こんな返事を口にしたことだろう。
 スミスさん、お言葉は心から感謝します。しかし、折角のご好意を裏切るようですが、私には横浜に両親がいます。しばらくの間働くのであればどこでも構いませんが、店を営業するとなれば、横浜以外には考えられません−。
 秀吉は同時にスミス氏の店を生川氏に譲ってやってほしいと申し出た。スミス氏の店はかつての外国人居留地のなかにあって、生川氏の店より遥かに地の利はよかった。
 スミス夫妻はさぞ落胆したことだろう。が、秀吉がそう言う限り、どうしようもない。夫妻は自分の店を申し出通り生川氏に譲り、英国に帰っていった。
 長崎を去る間際、横浜に戻るという秀吉にスミス氏は一人の日本人を紹介した。横浜のグランド・ホテルで理髪店を経営する大場勘之助である。スミス氏は大場とは直接の面識はなかったが、ブリジンスの設計になるグランド・ホテルは日本を代表するホテルとして上海でも知られていたので、多分支配人を通してその名を知っていたのだろう。
 この大場勘之助が秀吉の運命を大きく左右する。しかし当時、紹介したスミス氏も、横浜に戻って行った秀吉自身も、そんなことは夢想さえできなかったであろう。
 横浜に戻ると、折りよく海岸通りにあるグランド・ホテルの大場理髪店で採用募集をしているところだった。秀吉はスミス氏からの紹介状を差し出したが、大場のほうでも秀吉の名はすでに聞き知っていたらしい。秀吉は即刻、採用された。
 同時期に入店した理髪師に、芝山兼太郎氏がいる。後、美容界に名を馳せることになる芝山みよか女史の厳父である。
 秀吉は月給三十円を提示された。が、数日先に入店していた芝山氏が自分より二歳年上で、月給二十七円と聞くと、自分の月給を二十五円にしてほしいと申し出た。理髪料金が、普通の刈込みなら、八銭という時代である。
 この大場理髪室は、職人が四人、見習いが三人であったが、芝山氏と秀吉という気鋭を迎えて、半年経つうちに売上げも倍増したと言われている。グランド・ホテルは宿泊客もほとんど外国人であり、店の客も一握りの上流階級の人間を除けば、これまた欧米人であった。
 髷の時代も遠くなった明治の後期、理髪店の数は多かったが、町場の「床や」の仕事といえば、秀吉が上海で修業した理髪とはほど遠かった。
 あの頃のやり方は、髪を刈って、洗い、顔を剃るだけであった。顔や頭のマッサージもやらない。洗髪も洗面所へ連れて行き、固形の石鹸でゴシゴシ洗う。西洋理髪店ではレーザーを使い、さっと剃って終わりだが、町場ではこれが使いこなせなかったし、そもそも明治三十年代ではほとんど日本剃刀で、輸入品のレーザーなど使っていなかった。
 レーザーすなわち西洋剃刀は厚さのある身と刃の間に、コンケーブと呼ばれる凹みがついている。このコンケーブが特徴なのだが、それ以上に剃り方に違いがあった。
 一言で言うと、日本人は掘らないと気が済まなかった。今でいう深剃りである。これはヒゲ剃りの習慣の違いもあった。
 今の人は誰でも毎日顔を剃るが、当時日本では、毎日剃るという人はまずいなかった。普通、一週間に一度くらいのものだったろう。西洋の場合では子供のときから剃っている。生後間もなく顔を剃るというくらいだから、毎日剃るのも当り前なのである。だから、町場の床屋さんが西洋理髪の店に来ても、レーザーでサラッと剃っただけでは物足りなく感じたであろうと思う。
 珍しいのはレーザーだけではなかった。町場では洗髪も石鹸であったが、西洋理髪では輸入品のシャンプーを使った。秀吉は上質の練りシャンプーに香料を入れて溶かし、自家製のシャンプーを用意していた。また洗髪方法も、普通は洗面所に洗面器を用意し、そこに湯を入れて洗っていた。如雨露を使うこともあった。ところが西洋理髪では今日のシャワーを使った。秀吉が後に作った「大場理髪舗」では、ボイラーを焚いて釜から直接湯が出るようにしてあり、「蓮の実」と呼んでいたシャワーから頭に注いだ。
 何といっても、一番の違いは椅子ではなかったかと思う。町場のものは普通に座るだけの椅子だが、西洋理髪の理髪椅子は、後ろに倒れるようになっており、高さも上下できるようになっていた。これは、当時の日本人にはとても珍しがられた。
 秀吉が近代理容の創始者と呼ばれるのは、そうした本格的な西洋理髪をマスターしていたからに他ならない。
 明治の初期に活躍した小倉虎吉たちを第一世代とすれば、秀吉は第二世代の一人ということができるであろう。第一世代は暗中模索で理髪の道を確立した功労者ではあったが、本格的な西洋理髪を学ぶまでに至っていなかった。それら理髪道具を使いこなし、近代的な理容業を確立するには、秀吉たちの第二世代を待たなければならなかった。
 後に明治三十九年、秀吉の仲間でつくった「一会(はじめかい)」(技術研究会)のちの「大日本美髪会」ができている。これはさらに「日本理容協会」に発展していくが、秀吉はここで理髪を従来の床屋レベルから西洋理髪レベルに高めようと尽力した。それは第二世代の先頭を走る一人としての使命感からであったと思う。
 大場理髪室で一緒に働いていた芝山兼太郎氏もそうした第二世代の一人である。芝山氏は外地で修業したことこそなかったが、腕前はなかなかのものであったらしい。
 それに、大変負けん気の強い青年であった。上海帰りの秀吉に対しては事あるごとに対抗心を燃やし、二人は仕事の上では良きライバルとなっていた。片一方が五分で顔を剃れば、片方は四分、するともう一方は何秒かそれを縮める、といった仲であったようである。
 店主の大場にしてみれば、芝山氏と秀吉の張り合いは仕事の質の向上になるから、大いに歓迎すべきものであったろう。事実、店はますます繁盛し、評判を呼んでいた。
 芝山氏と秀吉は終生良きライバルであり、みよかさんと私は互いに相手の父を「叔父さん」と呼んで家族付き合いをしてきたほどである。ともかく芝山という人は負けん気が強い。当時から、「俺は日本一の理髪師になる。だから君には先を越させない」と秀吉に言い続けていたそうである。
 この負けん気の強さが、やがてある事件を引き起こすのである。


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