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父子二代の天皇理髪師
遥かなり昭和
大場 栄一
第一章 本格西洋理髪師 大場秀吉

 キャンブル氏来日をめぐる事件は、芝山兼太郎氏が飛び出して行くことにより、一応の決着を見た。
 店主の大場勘之助にとっては、芝山氏という優秀な理髪師に去られたことは大きな痛手であったろう。秀吉はすぐ勘之助の依頼を受けて、旧知の知人の松本貞吉の許に赴き、助手を紹介してもらい入店させているが、それにしても芝山氏の戦力には適わない。
 しかし、胸中複雑であったのは、誰よりも秀吉本人であったであろう。独立したいという気持ちは、秀吉も芝山氏に劣らず強かったからである。
 ある程度の理髪師になれば、誰しも自分の店を持ち、自分のポリシーにふさわしい営業をやってみたいものである。いわんや上海で修業してきて、内地の理髪師には負けないという自負を持つ秀吉であれば、なおさらである。横浜グランド・ホテルの<大場理髪店>に入ったのも、自分で店を持つまでの、勉強のつもりだった。
 よきライバルであった芝山氏が去ってしまうと、独立したいという思いは今さらながら、ふつふつと煮えたぎってきたのである。
 当時、一般の理髪店とホテルに入るような理髪店では、理髪料金から理髪師の給料まですべてが違っていた。<大場理髪店>にいた頃、父がどのくらいの待遇を受けていたかは、残念ながら聞いたことがない。
 確かなかとは、秀吉が「屋敷の理髪師」と呼ばれていたことである。
 これは普通の理髪師でなく、屋敷に住む上流人士のところに出張し、理髪できる人間を指した。横浜という土地柄、当然外国人の屋敷が主であったろう。理髪技術はもちろん語学からマナーまで兼ね備えた理髪師でなければできなかったことは言うまでもない。
 秀吉はすでに上海時代にこれを体験しているから、心得たものである。それができる「屋敷の理髪師」は、給料が高いのは当然とされていた。
 この秀吉を、勘之助はとても大事にした。自分の店の看板とも言える腕の持主であったから当然といえば当然であったが、それだけではなかった。
 勘之助には息子がおらず、八重という一人娘と一緒に住んでいた。ゆくゆくはこの娘に婿を迎え、家を継がせ店をもり立てて行ってもらおうと考えていた。白羽の矢が秀吉に向いたのは、勘之助自身が理髪師であり、秀吉の実力を知る立場にあったことを考えれば、何ら不思議ではない。そこでまず説得と、秀吉の両親を訪れた。
 後の秀吉の日記には、この頃、連日、勘之助が両親の家に来訪してきたことが記されている。
 秀吉の父歌之助はことわった。長男の吉次郎はアメリカに渡ったままだ。そろそろ年も取ってきたし、このあたりで次男の秀吉と一緒に住みたいと思っているのに、他所の家に養子にだすなど論外である・・・。
 話しを聞いた秀吉も同様だった。八重はフェリス女学院を出たお嬢さんで、派手好みだと聞いている。とても自分のような理髪師の暮らしには合わないのではないかと考えた。それに、今はともかく嫁をもらうことより、自分の店を持つことのほうが先決なのである。
 残念ながらこの時期の秀吉の日記は、後に戦災で焼失してしまった。ここにそのまま再現することはできないが、勘之助が両親の家へ、断られても断られても、日参したことを私は父から聞いたことがある。
 勘之助がどのような手を使ったかはわからない。ともかく執拗な攻勢の前に、とうとう両親は陥落してしまった。秀吉も拒めなくなり、養子になることを承諾する。
 同じ頃、秀吉の独立の計画も着々と進みつつあった。
 もはや横浜の時代ではない、と秀吉は考えていた。確かにグランド・ホテルには外国人客は多いし、屋敷街には顧客もいる。これまで、横浜が西欧文化の窓口であったことは疑えないが、日本が世界の大国の仲間入りをするようになった現在、その流れも変わるのではあるまいか。
 これからは東京だ、と秀吉は思った。なんと言っても、東京は都であり、天皇陛下がお住まいになる地だ。その東京には、本格的な西洋理髪店がまだほとんどないというが、今後発展していく日本の首都がそんなことであっていいはずはない。
 そんな気持ちの一端に、自分の理髪技術をもっと日本人のために役立てたいという思いもあったのかもしれない。横浜で西洋人に満足してもらえる仕事ももちろん悪くないが、東京に出てより多くの日本人に本当の理髪というものを理解してもらうことのほうが、もっと大事ではあるまいか・・・。
 その考えは、日本人の一顧客と知り合って、ますます強まった。
 グランド・ホテルは宿泊客は宿泊客は外国人であり、ホテル内の<大場理髪店>も客はほとんど西洋人である。が、ごく少数ではあったが、日本人客も来た。西洋人と付き合いのある貿易商が多かったようだ。増島さんという顧客もその一人であった。
 この客はとても秀吉の仕事を気に入ってくれた。そして、毎日のように顔を剃りにやってきた。いつか昵懇の間柄になったこの客は、ある日、こんなことを言ってくれた。
 今度、東京に事務所を出すことにしたんだが、あんたもどうだ、東京で始めてみないか−。
 それまでに、秀吉は上京して店を持ちたいという夢を増島氏に話していたのだろう。この貿易商ほうも職業柄、東京の諸事情には関心を持っていたはずだから、秀吉の夢の実現性について、アドバイスをしてくれていたのだろう。
 ・・・あんたが東京で独立する気なら、場所は提供してあげてもいい。今度、借りようとおもっている事務所はとても広くてね、半分余っているんだ。あそこ、使ったらいいよ−。
 それまで、独立したいという夢も、準備しなければならない店舗のことを考えると、つい凋んでしまうのだった。が、今回は増島氏が場所を無償で提供してくれるというから、夢の前に立ちはだかる大きな障壁が乗り越えられることになる。秀吉は増島氏のこの一言で、心を決めた。
 店をやめて、独立したい。
 この秀吉の決心を聞くと、勘之助はうろたえた。
 君は養子になってくれると約束してくれたはずではないか。約束が違うよ、この店を継いでくれなければ困る。・・・もっと別の店を持ちたければ、横浜で支店を作ってもいいんだから−。
 養子の件では両親を搦め取られ、譲歩した秀吉ではあったが、この件ではひるまなかった。二人の間では押し問答が繰り返されたが、意見は平行線を辿ったままだ。
 絶対許さないと、反対の姿勢を崩さない勘之助に、秀吉はこの一言をぶつけた。
 養子になることは承知しましたが、この店を継ぐとは約束していません。それに、八重さんとはまだ祝言をあげていませんし−。
 喧嘩別れになることはわかったいたが、言うことは言わなければならないと思った。
 秀吉と勘之助は、その性格からして水と油であった。几帳面で真面目、酒も嗜まない秀吉に対し、勘之助は酒に目がない遊び人で、金にだらしない。そんな違いは、店主とそこで働く理髪師の関係であるうちはよかったが、義父と養子の間柄になってくると、次第に頭をもたげてきた。
 結局、秀吉は養子の件をしぶしぶ内諾した格好で、東京へ出てしまった。横浜の<大場理髪店>は新たな理髪師を雇い入れて続いていくが、店主の勘之助自身が仕事に熱心でなく、職人任せにしていたためであろう、次第に面倒になって、数年後には営業を止めてホテルに権利を返してしまう。
 一方、上京した秀吉は増島氏の好意に甘えて事務所の一画を借りた。明治三十五年、二十五歳を迎えた秀吉は、東京市麹町区内幸町一丁目三番地に、初めての店を持った。
 店舗とは言っても、事務所を半分に区切って入口を別につけた仮住いに過ぎなかった。椅子も本格的な理髪椅子が間に合わず、普通の椅子で間に合わせたという。店の設備や理髪什器に関しても、どんなものであったかは秀吉本人の口から聞いたことがない。
 言ってみれば仮の店舗と、秀吉は考えていたようである。
 とはいえ、生まれて初めて自分の店を持った意義は大きい。開店した場所は、現在の帝国ホテルの近くである。町の賑わいは現在とは比較にならないとはいえ、帝都東京の、それも皇居から遠からぬ地である。
 これからの時代にふさわしく、東京に自分の店を開く−。その夢の実現に向け、秀吉は橋頭堡を築いたのである。


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