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父子二代の天皇理髪師
遥かなり昭和
大場 栄一
第二章 田村町大場理髪舗

 田村町(当時桜田本郷町)の<大場理髪舗>は、現在残っている写真を見ても、大変モダンな造りである。一度火事で焼失後、再建されたのは、私お生まれる前年であった。
 幼かった私の記憶に残っているのは、掃き清められた黒光りする木の床と高い天井に煌めくシャンデリア、それに磨き上げられた壁いっぱいの鏡である。戦争中に取り壊しになって今はもうないが、私の記憶に生き続けるこの店はそれは贅沢な造りであった。店の内装はすべて桜材で、マホガニー造りであった。天井一つとっても、吹き抜けで三階分ある。そのため三階建てのところを二階建てにしたのだが、今では誰もこんな不経済なものは造らなくなってしまった。
 理髪の店舗自体は二十三坪であるが、そこに四台の理髪椅子を置いた。火事の際、消失を免れた米国コーケン社製のものである。
 当時、日本で作られていたのは、まだ四本足の椅子だった。秀吉は上海で、丸い盤の上に乗り、回転できる今日の利用椅子を知っていたので、自分の店では是非それを使いたいと、ロサンジェルスに住む兄吉次郎に注文を依頼した。吉次郎のほうからは折り返しシカゴの万国博覧会に出品されたコーケン社のカタログが送られ、実現したのだった。
 最新のこの椅子は珍しいので、大変な評判になったらしい。椅子は結局、終戦の時まで使っていた。革だけは張り替えたが四十年間もの使用に耐えることができたわけだから、昔のものがいかに堅牢でしっかりしたよい造りであったかがわかる。ともかく秀吉は日本一の店を作ろうという意気込みで、什器類は一流のものを揃えたのである。
 鏡もまた、当時の国産のものは歪みが出てしまうというので、全部スイスから取り寄せた。椅子一台ごとに五尺×六尺という大鏡であった。化粧品を置く棚も大理石の本物を注文し、やはり輸入した化粧品の瓶を並べた。店の真ん中には大理石の太い柱があり、その周りが大理石の流しになっていた。ほかに、鏡付き帽子台、姿見の大鏡・・・すべて外国のものだった。
 鏡といえば、これだけのものは日本でもなかった。それで戦争に入って店を取り壊すに当たって、顧客の一人であった軍需大臣中島知久平さんがもったいないからと預かって下さることになった。中島飛行機の、あの中島さんである。あれだけの鏡を入れることができたのも、店が吹き抜けという造りであったからだろう。
 父の店のオリジナルとして、ミシン・ブラシと呼んでいたフケ取り装置があった。これも上海修業時代に知ってアメリカから導入したもので、第一章でもご紹介したように固いブラシで頭皮をマッサージしてフケを取った。後に保健所がうるさくなって、理髪師の健康上よくないと言ってきたが、父は家の伝統だからと、止めなかった。明治の頃はこれを手動で回転させていたが、のちに電気を使うようになり、それがために昭和十六年、軍から無駄な電気を使うなということで止めてしまった。
 あの当時、もう一つ珍しかったのは、ガス熱と扇風機を併用した毛髪乾燥器だった。原理はドライヤーであるが、現在のものとはパワーが比較にならない。本格的なドライヤーが生まれるのは戦後のことであり、あくまで洗った髪を乾かす程度にすぎなかった。
 こうした一流ずくめの設備のなかで、ヘアカット、シャンプー、シェービング、フェイシャルマッサージ、ヘッドマッサージが行われた。一般にはまだ日本手拭いを使っていた時代に大場では上質のタオルをふんだんに使い、洗面所の隅で洗面器に頭を突っ込むのが普通であったところに父の店では理髪椅子に座ったまま、シャワーから湯をかけた。こうしたシステムからマッサージに至まで、父が始めた西洋理髪は今日、どこの理髪店にも普及しているのは周知のとおりである。
 理髪料金のほうは、一般料金が十銭から十五銭であった時代に一円であった。開店二年後には一円五十銭と聞いている。当然、客も内外の上流階級の人間に限られでいたようである。外人七割、日本人三割であり、大方の日本人には入り難かったのである。
 伊藤博文公も開店後しばらくして、評判を聞いて客となった。頭を刈るのではなく、髭だけである。父は髭を作るのが上手で、誰にも真似ができなかったので、コテをかけてもらうために二頭立て馬車でやって来たようであった。
 父は伊藤博文公をお迎えするのを大変な名誉と思っていたようだが、お客になったのはほんの数回であった。最後はハルビンに発つ直前であったが、そこで暗殺されてしまう。暗殺されたのは開店二年目の明治四十二年である。私が生まれた年でもあったから、むろん私自身は父の話で知っただけである。
 ところで、お客さんといえば、思い出すのは馬糞のことである。ちょうど私が小学校に入る頃だったと思う。
 当時は馬車で来る客が多かった。二頭立てだったように思う。蜂須賀茂韶公爵などは強く印象に残っているが、華族の顧客は黒塗の馬車で店の玄関の前にお着きになる。すると馬はすぐに馬糞をたれて尿をする。馬というのは心得たもので、尿をするときは位置をずらしてやるから、馬糞は汚れない。
 あの頃、私は父から「馬糞を踏め、馬糞を踏めば大きくなる」と言われていた。身体が弱くてチビだった私は、その言葉を信じて一所懸命、店の前で馬糞を踏んだものである。
 馬糞というのは、別に臭くはない。といっても普通に踏んでは足に付いてしまうから、高下駄を履いた。父がそれを知っていて、用意させておいてくれるのである。
 私が踏んでいると、近所の子供たちもやりたくなって加わってくる。たちまち、馬糞は踏みつぶされていく。そうすると、掃くように命じられて、私はよく店の前でこの馬糞を掃除したものである。
 父は子供の躾には厳しかった。仕事を離れた父はとても優しく、一緒に風呂に行けば身体を洗ってくれるし、あの頃は必ず朝湯に行ったものだが、その後は必ず近くの木村屋という喫茶店でパンを食べさせてくれた。ところが店に出るとまったく人間が違ってしまう。
 幼い私は、時どき店を覗きたくなった。入口は別だが、住居も同じ敷地内に建っていたから、店も様子も大体わかる。たまたま店で暇になって客の姿がなくなったときなど、そっと店に顔を出すと、父は烈火のごとく怒った。
「来ちゃいかん。子供が来るところじゃない!」
と、大変な剣幕なのである。
 その父も、私の馬糞踏みだけは、寛容だった。ガラス越しに仕事をしながら笑って眺めていた。ひょっとすると、馬糞を踏めば身体が丈夫になるというのを本気で信じていたのかもしれない。
 店の使用人は全員、絣の着物に袴を履かせていた時代だった。冬は黒足袋である。その格好でドア・マンをさせる。徒弟制度がきっちりしていた時代だから、奉公人は「さん」付けでなど呼ばずに「何々どん」と言っていた。
 もっとも、ドア・マンは皆なりたがっていて、指名されると喜んだ。店の仕事で一番楽だからである。


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