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父子二代の天皇理髪師
遥かなり昭和
大場 栄一
第二章 田村町大場理髪舗
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 明治四十二年六月二十五日、私は芝の巴町で生まれた。田村町の店舗からは三百メートルほど離れていただろうか。
 父は田村町の店を営む傍ら、巴町にもう一軒店を構え、弟子の斉藤隆一氏に任せていた。斉藤氏は弘前出身の理髪師で二十四歳になって発奮して上京、秀吉の許に弟子入りをして修業した人で、後に中央理容学校の初代校長として理容業界の歴史に名を残している。
 巴町に店を作ったのは、もう一つの理由があった。義父勘之助である。その頃、勘之助は横浜を引き払い、秀吉の許に住むようになっていた。といっても、理髪の仕事をするわけでもなく、ますます酒浸りになっていた。秀吉は養子に入った身とはいえ、そうした義父と折り合いがよかろうはずはない。そこで巴町に義父と妻八重を住まわせ、斉藤氏に世話を一任する形となった。
 母八重はその勘之助に溺愛され、女学校時代は人力車で通った乳母日傘のお嬢さんであった。結婚しても秀吉が婿養子であったこともあり、我侭な性格は変わらなかったらしい。それでも秀吉が店を開き、将来マニキュア部門を始めると口にした際、自分もやってみたい、と言いだした。当時、日本でマニキュア技術を教えられる人はいなかった。秀吉は上海のスミス店で見て知っていたが、本格的に勉強したわけではない。そこで、秀吉はロサンジェルスの秀吉に相談した。
 兄からアメリカには美容学校があって、マニキュアなどを専門に教えていると手紙があった。もし八重が勉強したいなら世話して上げてもいいと書いてある。そこで、秀吉は八重を留学させることにした。私が生まれた翌年のことである。
 ところが八重はロサンジェルスに着いても学校に行かず、展覧会だショッピングだと遊び歩いていた。挙句に、吉次郎が注意すると飛び出してしまい、ハリウッドの俳優といい仲になってしまった。
 八重は一年間という約束通り帰ってきたものの、仕事を覚えてきたわけではなかった。秀吉との溝は深まるばかりである。一年も放っておかれたので、私もなつこうとはしない。その上、私の二歳下に生まれた弟が生後一年にならぬうちに病没してしまった。
 昔は「袂糞」といって、体が弱い子のおへそに貯ったゴミをつけると丈夫になるという言い伝えがあった。弟はとても元気のよい子であったが、ある日、熱を出して、婆やがこの袂糞をつけたところ、かえって悪化した。丹毒になって四十三度の熱を出し、五日後に死んでしまったのである。
 生まれつき体の弱かった私を育ててくれたのも、弟の看病をしてくれたのも、生母の八重ではなく、秀吉の姪に当たる静子だった。静子は幼い頃から店の手伝いをするのが好きで、秀吉からフェイシャルとかマニキュアなどを教わっていた。私には二人の姉と幼くして死んだ弟がいるが、私たち姉弟を母代わりに面倒見てくれたのは、この静子だった。
 まもなくして八重は離縁して家を出ていった。今から考えれば、秀吉と八重は勘之助の押しつけで一緒になったようなものである。当時はそんなことは珍しくはなかったとはいえ、二人の育ちも性格も違いすぎた。八重の派手で社交的な性格がどこかで生かされれば別の結果を生んだかもしれないが、あいにくその機会はなかった。それに二人をめあわせた勘之助も私が生まれた翌月に亡くなっていた。離別はやむを得なかったのかもしれない。
 辛い立場に立たされたのは父であった。静子は終生、私たちの母として、また美容師として大場家をもり立ててくれたが、いわゆる夫婦関係はなく、籍も入っていない。が、世間はそうはとってくれないから、父は大いに悩んだらしい。
 いや、もっと辛かったのは静子自身であったろう。が、そんな様子は素振りも見せず、実の母以上の愛情で私たちを包んでくれた。私にとって、母とはこの静子にほかならなかった。
 生まれたのは巴町であったが、私が育ったのは田村町である。
 五歳前半までほとんど寝たきりであったというから、私は今でいう虚弱児であったのだろう。母乳ではなく牛乳で育ったが、胃腸が弱くてその牛乳を受けつけない。静子つまり二番目の母は厳しい人で、私を丈夫にさせたいと言って一切の間食を禁じた。それというのも、医者がこう診断したからである。
「この子は胃腸が弱いから、このままでは死んでしまう。丈夫に育てようと思ったら、間食をさせずにご飯をしっかり食べさせなさい・・・」
 母はこの注意を金科玉条のように守り、一切おやつというものをくれなかった。
 あの頃は五厘銭があって、駄菓子が買えた。一銭だとちょっと大きなものが買えたし、二銭といえば子供には大変なものだった。ところが母は一銭はおろか五厘銭さえ持たせてくれたことはなかった。
(あんなに厳しくして・・・やはり継母だからかね)
 と親戚筋からは誤解されたこともあったようだが、母は何とか丈夫にしようと必死であった。小学校に入るまでの記憶が私にはほとんどないが、それというのもその間、布団から完全に離れられなかったためだろう。小学校に入学したとき、背が小さくて一番前だった。
 表で遊ぶことができるようになったのは、小学校に入ってからである。
 私は田村町の店と同じ敷地内にあった家に住んでいた。周辺は屋敷街で大きな砂糖問屋や酒屋があって、道を歩くと揺が聞こえてきたりした。ところが市電を挟んだ道の向こう側は新道といって、長屋街で、職人や勤め人が住んでいた。そちらのほうが子供の数も多く、活発だった。新道には駄菓子屋があり、おいしそうなパンを売っている。
 私は必然的に屋敷街のグループに入っていたが、新道のグループとは何かと仲が悪い。あの頃、子供の遊びと言えば竹馬に乗ったり、ベーゴマやメンコをやったものだ。ところが同じ竹馬でも私たちのほうは良い竹を使って頑丈に出来ているが、新道の子達は駄菓子屋で買ったものだから少し乗っているとすぐ切れてしまう。そんな訳で、事あるごとに喧嘩になった。
 私たちのボスは安井という砂糖問屋の息子で、慶応の幼稚舎に通っていて、体も大きければ喧嘩も滅法強い。新道のガキ大将と喧嘩してもこの少年だけは引けを取らなかった。
 彼がいるときはいいが、いなくなると私達は弱い。なんといっても、向こうは数が多いのである。新道の子達が押しかけてくると多勢に無勢、ボスがいないとたちまち負けてしまう。
 仕方ないから、家に入ってしまう。私の家には若い者が沢山いるから追い払ってくれるのだが、家に逃げるまでが大変である。ずいぶん怖い思いをしたものだ。
 小学校は桜田小学校に通っていた。現在はもうないが、当時は木造校舎で、今の新橋第一ホテルの所にあった。国鉄の線路を隔てた銀座五丁目には泰明小学校があって、あちらは銀座、有楽町の育ちのよい子が多かったが、私共のほうは烏森という芸者街をかかえていたので芸者の子が多かった。
 そのせいか、女の子が派手で、ませていた。五、六年になると、女の子のほうが待ち構えていて、男の子をからかうのである。大体、あの年代は男のほうは色気なんてありはしないし、ことに私はチビで万事に奥手であったから、からかわれるのが恥ずかしくてたまらなかった記憶がある。
 小学生時代、他の子供達が羨ましかったのは、なんといっても小遣いとおやつだった。例の安井さんの家に遊びに行くと、砂糖問屋だけあって、子供にはふんだんにおやつが与えられていた。私達遊び友達にも、一人ひとり懐紙に分けてくれる。それが嬉しくてたまらなかった。
 もらったお菓子はすぐ食べたいのだが、私は必ず懐に入れてしまっておく。母に黙って食べては叱られると思い、家に帰って見せてしまうのである。と、母は「いけません。ご飯以外は食べてはいけません」と、私の手から取り上げてしまう。子供心に食べたくてならなかったが、私にはどうしてもこっそり隠れて食べることはできなかった。
 母の躾は徹底していて、私は中学校を卒業して兵隊に行くまで、金を持たされたことがない。おかげで身体は次第に丈夫になっていったが、金の価値を全然知らずに成長してしまった。現在に至るまで、金の使い方が下手で買物などが苦手なのはそのせいだろう。
 戦前まで、七五三の写真が残っていた。普通、男の子は五歳なはずだが、私は七歳のときに撮っている。身体が弱かったから、五歳の祝いを七歳でやった訳で、残念ながら戦災で焼いてしまった。自分で言うのもなんだが、私は可愛らしい子であった。母が美容をやっていて、父がおしゃれときているので、そういうときには大変上等な着物を着せられる。縮緬や羽二重の着物だから目立って、親戚などへ行くと、皆寄ってきて触られたものである。
 子供心には、そんな上等の着物より、駄菓子屋へ友達と入ってみたりしたかったが、とうとう私はその機会に恵まれなかった。


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