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父子二代の天皇理髪師
遥かなり昭和
大場 栄一
第二章 田村町大場理髪舗
3

 いったん丈夫になったかのように見えたものの、桜田小学校を卒業する頃に、私は再び寝込んでしまった。
 心配した両親は千葉に別荘を建て、私と二人の姉、母方の祖母そして婆やを住まわせることにした。私をはじめとした子供たちの健康を慮ってであったが、父は無類の釣り好きであったから、自分の趣味の口実でもあったのかもしれない。
 まだ、千葉県に市が一つしかない時代だった。千葉市が人口三万人を突破してようやく市となったばかりで、二番目が市川だったが、それも市とはなっていなかった。私達の別荘は漁師町の人口に当たるさむ寒川神社のそばにあった。父は百五十坪の地所を買い、家を建てた。
 家そのものはさほど広くなかったが、敷地内には畑があった。私はそこで畑仕事をやらされ、ニワトリの世話をした。いずれも私の体力造りに役立つようにと、母が考えたものだった。
 千葉に移ると、私は千葉師範の付属高等小学校に入ったが、病気のため最初の一年間はほとんど通学できなかった。結局、高等科に二年間籍を置いた後、中学は東京でなければ駄目だというので日大三中に入るが、一年の二学期半ばにまた千葉に舞い戻ってしまった。
 そうした私を鍛え直してくれたのは、千葉の海だった。
 近くの漁師町に私を可愛がってくれる船頭さんがいた。年をとっていた人だったが、釣舟に乗せてくれて、海に私を放っぽり出して溺れそうになると助けてくれた。そのようなことをして私に泳ぎを教え、舟の漕ぎ方を指導してくれた。ちょうど、私が日大三中に入ったものの途中で続かずに千葉に戻って、今はもうなくなったが、地元の中学校の二年生に編入した年のことだ。
 父と母は、毎週土曜日になると千葉の別荘にやってきた。田村町の店は夕方六時までだったから、別荘に着くのは八時頃になっていただろうか。うちの店は当時としては閉店時間が早いほうだった。日曜日は休みだから、土、日曜は必ず千葉で私達と暮らした。
 最寄り駅は本千葉駅だったが、そこまで来ると東京から一時間二十分はどかかる。ところが千葉駅だと一時間五分で着くから、両親は千葉駅で降りて人力車を雇っていた。
 私は土曜日の夕方になると千葉駅まで迎えに行った。もっとも私が行ったのは六時頃だから、両親が着くまでには間がある。結局は待ち切れずに帰ってきてしまうのだが、それでも運動のためにでかけていく。
 千葉駅までは自転車で行った。それも赤い自転車だった。私は東京の子で色が白かったし、赤い自転車に乗っているというので、評判になっていた。が、私以上に有名であったのは、東京から通ってくる両親であった。
 両親は人力車を雇うと、本道を通って、別荘のある寒川神社のほうにやってくる。人力車で二十五分くらいかかっただろうか。夫婦でいつも人力車に乗ってこの道を往来するので、たちまち有名になってしまった。
 というのも、父はハンサムだったし、母もそれなりの品格があった。その二人が土曜日の夜の八時頃と月曜日の朝十時頃、決まって往復するのである。
 私達の住んでる所には別荘が五、六軒あるだけで、あとは少し離れて漁師町があるだけである。土、日曜日になると決まってやってくるの父を、土地の人は大学教授ではないかと噂し合っていたらしい。
 後に陛下の御用を勤めることになって父が有名になったのは事実であるが、赤い自転車に乗った少年と人力車でやってくる夫婦がまさか理髪師の一家とは誰も想像できなかったであろう。
 千葉生活は通算五年に及んでいる。
 この間、私は体を充分に鍛えることができた。海で鍛えられたおかげで、水泳は大の得意になって、以来水には絶対の自信を持つようになった。別荘で畑仕事をし、ニワトリを飼ったことは、ずっと後になって戦後の困窮時代に糊口をしのぐ際に役だった。飼うといえば、猿を飼ったこともあったが、この猿は死ぬまで面倒を見てやり、一人で立派な墓を造って毎日線香を立て、花を供えてやったのもなつかしい思い出である。
 体は自分でも信じられないくらい、丈夫になっていた。
 千葉で高等科の二年間という廻り道をしたため、私が一時、日大三中に入ったときには同年齢の生徒は三年生になっていた。新入生の私はほかの生徒より二歳年が上だったが、それでも学年で一番体が小さかった。
 それが千葉生活を終えて、四年生に編入したところ、かつて学年で一番小さかった私が逞しく成長して上位のほうになってしまったので、皆から驚かれた。当時は学校教練があって、長い剣をさして「頭ぁ、右」とやっていた。
 軍隊から派遣された教官は私にやらせてくれることもあった。きっと運動神経もよくなっていたのだろう。私が軍隊を好きになったのは、このときからである。
 私は今でも千葉の海とあの老船頭に感謝している。また、両親ことに母にも。母は別荘に来るごとに、畑に水をやっているか、種を蒔いているかと、小学生時代と変わらずに私に厳しい眼を光らせてくれたのである。


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