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父子二代の天皇理髪師
遥かなり昭和
大場 栄一
第三章 父子二代の天皇理髪師
2

 父が東宮殿下の御理髪係を努めるようになったのは大正十年、私がまだ小学生のときだった。五年後には、殿下は天皇陛下になられているので、父は初代の天皇陛下の理髪師となった。
 陛下の理髪師となることがどれほど名誉なことであるか、小学生の私にはまるでわかっていなかった。友達から「床屋」と呼ばれるたびに嫌でたまらなっかたから、無理もなかったのだろう。
 前にも触れたと思うが、父は陛下のことはたとえ家族といえども、一切口にしなかった。有難い現人神にお仕えしているという気持ちであったから、父にとってはみだりに陛下のことを口にするなど、もってのほかであったのである。
 子供心に覚えているのは、父の水浴びする姿だった。私達が千葉で暮らしている頃であったが、陛下にお仕えする日になると、父は褌一つになって庭の隅にあった釣井戸から水を汲み、水をかぶって身を清めた。真冬でもこれを欠かさなかった。
 田村町に住んでいた時分には、、父と毎日必ず朝湯に行っていた。朝湯は父の楽しみで、家の風呂には入らず、毎朝六時に起きがけに銭湯に行ったものである。そこでも、陛下にお仕えする日には、水を浴びる。
 冬など、周りの人達はびっくりしてしまう。
「大場さん、どうしたんだい。一体、何があったの?」
 そう言われても、父は無言で身を清めた。私もやったことがあるからわかるが、いっぺんでも寒いと尻込みしたら出来なくなってしまうから、寒いときには服を脱いだらすぐ頭から水を浴びてしまうに限る。
 こうして身を清めてから、灯明をあげる。神様と仏様にずいぶん長く上げていたのを覚えている。そして初めて、朝ご飯を食べ、店に顔を出してから、御所に伺っていた。
 参内するときには、普通の背広姿だった。手には必ず、御紋章の入った例の黒いカバンを持った。ご理髪の道具は、父が自分で手入れをして、他人には絶対に触らせなかった。その道具類と共に、カバンには白のフロックコートが入っていた。
 これが、お仕えするときの理髪衣であった。父が自分で考案し、洋服屋に作らせたもので、フロックコートの型をした絹の衣裳である。
 ともかく父が陛下に出仕していたことは、そうした断片的な記憶を除いてはほとんど意識に上ったことはなかった。唯一の例外は、正月元旦のことだった。この日ばかりは、私も子供心に父が天皇陛下にお仕えしていることを強く感じたものである。
 毎年元旦になると、父は御所に伺って、帰りには「きびもち」戴いてくる。
 これは煎餅のように平らにした餅に、黍(きび)と牛蒡(ごぼう)、葉付きの姫大根を包み、味噌をまぶしたものである。この味噌がとても旨い。宮中の大膳堂で作る、伝統的な正月の餅で、正式には名前があったのであろうが、私達はこれを「きびもち」と呼んでいた。これを三十くらい戴いてくるのである。
 元旦のこの日、父は午前の十時半ごろ御所に伺うが、顔を赤くして戻ってくるのは三時半から遅いときには四時半になってしまう。すると、母達が持ち帰った「きびもち」を素早く三つに切っていく。
 店にはこの日、支店の従業員も含めて全員が集まってきた。理髪だけでなく理容もあったから、六十人近くになっただろうか。すでに店には椅子などを片付けて、テーブルを置き、そこに仮設の神棚が用意されている。陛下の御真影と天照皇大神宮と書かれた天照大神の木のお札の前に、まず戴いてきた「きびもち」をお供えするのである。
 こうしてから、一人ひとり手を合わせてお参りし、御神酒を戴いていく。父を先頭に、母次いで、私、姉、さらに一番弟子の海津と続いて行く。恩賜の杯にお酒をついでいくのは母の役目だった。六十人もいるから大変である。しかし、この順番は決して間違わない。順番が狂っては大変なことになってしまうから、皆自分は誰の次であるか、ちゃんと覚えている。
 このときに、一人ひとりご下賜の「きびもち」を戴く。紙に包んで渡される餅は、懐に大事にしまって後で食べるのである。
 六十人が一通り巡ると、一時間以上かかる。そこで、この行事が終わるのは五時頃から五時半頃になってしまうが、こうしてから初めて元旦の食事が始まるのである。
 それまで餅を焼いて空腹を満たすことはあっても、雑煮のような正式な食事は一切取らない。昔はけじめを重んじて、そうした不文律は決して破ることはしなかった。今になってみると、偉いものだと思う。
 店の裏手にはかなり広い家があって、一階が従業員、二階が私達家族の住まいになっていた。この正月のときばかりは、二階の私達の住まいを開け放って、全員今度はお屠蘇を戴く。
 うちの美容室では前にも述べたように、美容師は高等女学校を出た者しか採らなかった。母は、採用した美容師が将来嫁に行っても、主人にちゃんとしたものを食べさせられるようにと、従業員の食事は美容師の中から三人ずつ交代で当番を決めていた。メニューは三人が相談して決めたが、味のほうはまず母が味見をして、薄いとか濃いとか批評する。当人たちは嫌がっていたかもしれないが、そのおかげで皆料理はうまかった。正月の料理も、母がそうした美容師たちを指図して準備したものだった。
 元旦の事だから、三つ重ねの杯に酒をついだ。この日は一番上、次の日は二番目、三番目は大きい杯となっていくのだが、二日目は理髪のほうは休むが、美容のほうは店を開ける。だから美容師が集まるのは元旦だけで、酒を飲まないからすぐ階下に行って、雑煮を食べたり、おせちに箸をつつく。二階に残るのは家族や弟子たちのなかでも上のほうの者だけだった。
 そんなときは父も、ちょっぴり口許が緩んだ。今日は、陛下、とてもご機嫌麗しくて……ということがあれば、今日は皇后陛下がご一緒でね……と口にすることもあった。父自身もよほど気分がよかったのである。
 しかし、それ以上は絶対に話さなかった。少しの酒で廻る父であったが、元旦といえども「陛下の理髪師」であるという職分を忘れることはなかった。


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