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父子二代の天皇理髪師
遥かなり昭和
大場 栄一
第四章 陸軍中尉 大場栄一
3

 最初の召集を受けたのは、昭和十四年十一月三日であった。
 昭和五年に除隊以来、九年目のことである。この間、家業一筋に励んで力もつけていたが、お国のためであるから私は喜んで駆せ参じた。近衛師団歩兵二連隊の本隊付きであった。私は十一月三日に招集されて十五日まで連隊にいたが、その日から今度は配属将校として母校・日大三中に赴くことになった。
 配属将校の身分となったが、先生方は私の中学時代をよくご存知である。中学を卒業してからだいぶ年月も経っているし、私自身一年間の近歩での幹部候補生生活を送って今は少尉になっていた。にもかかわらず、
「あの大場が少尉だって? ちゃんちゃらおかしいなあ」
 と、先生方に散々冷やかされる。あげくには、
「偉そうなこと言ったって、駄目だぞ。大場!」
 とまで言われる始末である。
 生徒たちに号令をかけようと思っているときなど、先生が窓から首を出してニヤニヤしているのを見ると、声も出なくなってしまう。やりづらいこと、この上もない。それでも、お役目は果たさなければならない、と思っていた。
 ちょうど、査閲の前であった。査閲には、佐官級の査閲官が来ることになっている。私の学校に査閲に見えたのは山本中佐と言って、のち小笠原で玉砕された方であった。査閲の計画は実に綿密に書かれていた。
「貴官、これを全部やらねばいかんぞ」
 そう言われて「はい」と答えたものの、こんな学校の雰囲気で、これだけの量の訓練を生徒にほどこすなど、考えただけでうんざりしてしまった。こんなことなら、野戦に行ったほうが性に合っている、と思った。
 当時、私共は谷中の駐屯部隊から母校に通っていた。配属将校となって一ヵ月近くなって、私は自分の連隊に帰り、連隊長に第一線に行きたいと志願した。補充があったらぜひやらせてくれと申し出たのである。
 連隊長は第一線に補充はないが、考えておこうとおっしゃった。これは駄目かなと思っていると、四日目の夜に電話があって、すぐ軍装してくるようにと連隊副官から命じられた。夜十一時頃になっていただろうか、連隊に駆けつけると、私を希望通り第一線に行かせてくれるという話だった。
 どうやら、近々補充に廻す予定の者がいたが、私をその代わりにやってくれることになったらしい。予定になっていたのは、銀座・千疋屋の若旦那だった。向こうは「俺は行きたくなかったんだ。よく、行きたいと言ってくれた」と私に感謝してくれた。こちらも、配属将校にはうんざりしていたので、野戦に行けることになって嬉しかった。
 あの時分、野戦に行くものは意気軒昂として、内地にいる者はシュンとしていた時代であった。陸軍の将校であれば、偕行社に毎日のように行って装具を整え陽気に騒いでいた。私もその口で、野戦に出ることが決定してから、軍刀を一振り購入した。
 奥州山形の本間家が宝刀を三百丁ほど放出していたときだった。それを偕行社が主催し、白木屋であったか陳列会を開いた折に買い求めたものである。
 私が求めたのは、備前の国、初代阿陀羅勝国のものであった。初代の勝国はなかなか有名な刀工であったらしい。私は戦争中ずっとこれを持っていて、実際に敵兵を斬ったこともあるが、残念ながら敗戦後、収容キャンプに入れられたときにほかの所持品と共に取り上げられてしまった。
 年が明けて一月九日、私は東京を発った。
 近衛師団歩兵部隊が中国へ渡っていたのは、蒋介石政権が海外から物資を購入する「援蒋ルート」の遮断が目的であった。米・英国は中国に肩入れをして援蒋ルートで昆明から重慶を経て南京へ物資を送っていたが、さらに南のルートすなわちベトナムのラオカイから南寧に出、そこから直接広東省を経て南京へ出る南の援蒋ルートを開いていた。
 従来の北の援蒋ルートは中支派遣軍が押さえていたので、南支派遣軍はこの南のルートを叩こうとした。ところが向こうは日本軍の動きを前もって察知し、包囲体制を作ってしまった。近衛師団は熊本第五師団とそこへ突っ込んでしまったので、めちゃめちゃに叩かれた。
 被害は甚大なものであった。私の属することになった「近歩二」十一中隊の場合をとっても、第一小隊長が戦死、第二小隊長も戦死、第三小隊はもう少尉さえ残っていずに准尉が小隊長になっているくらいである。中隊によっては、もう将校が一人も生き残っていない部隊さえできてしまった。私たちはその被害の補充のために向かうことになったのである。
 一月七日、近衛師団は芝の増上寺で編成をして品川から軍用列車で宇品へ向かった。補充部隊は将校が七人で計五百人くらいであったから、被害がいかに大きかったかを物語っている。
 宇品からは輸送船に乗船し、瀬戸内海を通り、関門海峡を抜けて玄海灘へ出、東シナ海を南下して台湾海峡を通って広東に入港した。
 私が輸送指揮官を務めていた。少尉が指揮官を務めるのだが、ほかにいないのだから仕方がない。一人、大尉の軍医がいたが、軍医は指揮権がないから、本科の歩兵の務めである。
 後に昭和十九年一月、二度目の招集で同じく輸送船に乗ったときには、南方に行くのか、中支に行くのか満州に行くのか全くわからなかった。それに潜水艦の攻撃が激しくなっていたので無事に着くかどうかも保証されていなかった。しかし十五年のこのときは、まだまだそうした心配は無用だった。
 船中の生活は豪勢なものだった。ご馳走はたっぷりある、酒の好きな者は飲み放題で、まさに御の字であった。いよいよ野戦に出るというので、皆でかいことを口々に吹聴していた。
 実際に戦地に赴けば、内地では想像がつかない艱難辛苦が待ち受けているのだが、五百名の補充兵は意気揚々と東シナ海を渡っていったのであった。


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