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父子二代の天皇理髪師
遥かなり昭和
大場 栄一
第四章 陸軍中尉 大場栄一
4

 広東から文虫山(広東省欽県)に上陸したのは一月二十一日であった。
 上陸するや、南支軍が猛烈な攻撃をしかけてきた。私は「近歩二」の第十一中隊に配属され、七十二人ほどの小隊を指揮することになっていたが、上陸した日の晩から戦闘が始まってしまったわけである。
 私は今でも軽い歩行障害がある。実はそのときの戦闘のせいである。
 私は出征前に、偕行社で軍靴を誂えた。それを履いていこうと思ったところ、靴はどうせ一つでは駄目になってしまうから、最初は下賜される軍靴を履いておいたほうがよいと助言してくれる下士官があった。助言に従って、私は部隊の靴を履いたが、それが小さかった。
 現地に着いたら履き換えよう、と思っていたところ、いきなり戦闘になってしまった。休止のときに換えればいいではないか、と思うのは、戦争を知らない方である。私がようやく靴を履き換える余裕ができたのは、一週間続いた戦闘が終わったときだったのである。その頃には足の方が完全に壊れてしまった。
 我々の役割は、援蒋ルートを断つことにあった。広東の二十三軍司令部では飛行機の偵察をはじめさまざまな形で敵の情報を取り、動きを掴んでいたが、敵は米・英軍がバックにいて、日本軍の動きをもっと掴んでいるかもしれない。お互いに騙し合いのようなものだが、ともかく二十三軍司令部の情報をもとに連隊長が作戦を立て、我々はその司令下に動く。戦争になれば中隊などは本当にちっぽけな存在で、我々は文字通り将棋の駒のようなものである。
 敵の情報といっても、こちらが動いているように敵も動いている。こちらは援蒋ルートを遮断させようと行動し、敵は遮断されまいとして逃げている。追い駆けっこのようなものであるから、最終の目的地もルートも、初めからわかっている訳ではない。連隊長でさえ、実際に行軍してみなければ、何とも言えない状況なのである。
 ともかく、上陸した晩から、一日三十数キロの行軍であった。いつ、どこから敵の弾が飛んでくるかわからないし、そもそも歩くのも普通の道ではなく、敵に気付かれないように山や谷の道なき道を分け入って進むのである。
 私は小隊長であったから、先頭に立った。夜には、軍刀を肩にかついで、その先に白い襟布を巻いた。それだけを頼りに兵隊たちは付いてくる。真っ暗であるから、前の人間がつまずくと次の人間もつまずく。
 地図はあっても、大して役には立たない。そこで人家を見つけると、若い人間を銃で脅して徴発し、道案内につけた。これをやるのは曹長の役だった。私のところの曹長は勇敢で、途中で役に立たなくなるとすぐ帰してしまって、人家を見つけては新しい案内人を探してきた。嘘をつくと殺すぞと脅したし、実際に間違った道を教えるような相手は殺しもする。その案内に部隊全員の命がかかっているのである。
 こうした戦(いくさ)は地形を知り尽くしている分だけ、敵が有利だ。それに相手は軽装だが、日本軍は重装備である。兵隊が十三貫、将校が十一貫。弾薬から衣類、食料まで全部背負って山の斜面を上ったり下ったりする。
 ただし、兵隊十三貫、将校十一貫というのは食料を一週間分入れての話である。内地の演習で、たとえば九段から富士の裾野までこの重装備で歩いていくと、バタバタ倒れる。それほど重い。そこで、こうした野戦の場合は、一週間の予定なら三日半から四日分の食糧しか持たない。そうすると、十三貫のところが十貫で済む。背負っていく分には、この違いはとても大きい。
 当然、食料は四日も経てば尽きてしまう。どうするかというと、現地徴発である。日本人が中国人をいじめたというのも、食料をこうして現地の人間から取り立てたからであろう。もし食料を出さない場合は脅迫した。兵隊にとっては、食うために仕方なかった。
 どうしても出さない場合は、民家を燃やしてしまうこともあった。こうして住民が逃げた後、残してあった食料を手にした。日本軍は必ず徴発した食料の代金として、お金を置いた。ただし蒋介石側の軍票ではなく、日本の傀儡であった汪兆銘側の軍票、「兆金」と呼んでいたものである。
 ともかく、ひたすら歩き続けた。
 食事さえ、歩きながらである。それも乾麺棒(かんめんぼう)というウドン粉を固めたものに水。たまにコンビーフの肉、あとは金平糖だった。乾麺棒と金平糖は一緒の袋に入っていたので、手を突っ込んで金平糖を捜し当てるのが唯一の愉しみであった。
 敵から、いつ攻撃を受けるかわからない。昼となく、夜となく、緊張の連続であった。
 大休止があると、皆その場で死んだようにごろっとなって眠った。疲労は極限に達しているので、なかには水を飲む力さえ残っていずに、元気な者から水筒を口にあてがってもらい、やっと息をつく兵隊もいた。私にしても、そうした七十二人を率いていかなければいけないから、とても靴を履き換える余裕は残っていなかった。
 ある日、こんなこともあった。
 私が将校斥候を命じられ、二十三名ほど連れて、捜索に出た日である。伝令に森という1等兵がいて、私もとても可愛がっていた。その日、私は森一等兵に、ふだんよく働いてくれるから休めと、命じた。ほかに体の具合が悪い者、栄養失調になっている者たちを残すことになったので、そのお守り役を頼んできたのである。
 ところが私の留守中、森は私の予備の日本刀を持ち出した。例の阿陀羅勝国は腰に下げていたが、私はもう一振り、昭和刀を戦地に持って来ていた。それを腰に下げて、宿舎から出た。と、その瞬間、森は銃弾を胸に受けて即死してしまった。
 どうやら敵は、指揮官が出てきたら撃ち殺してやろうと待ち構えていたらしい、そこへ、森一等兵が腰に日本刀を差して現われたので、指揮官と思い込み、銃撃したのである。
 その報告を、私は払暁、現地に戻ってきて知った。それにしても、まさか私の軍刀を持ち出すとは思わなかった。古参兵であったから、指揮官の真似をしてみたかったのかもしれないが、それが命取りになた。なんと馬鹿なことをしたものだと、私はその伝令の死を惜しんだ。
 戦地であるから、いつ、何があってもおかしくはない。怖いのは、敵の弾だけではなかった。
 一月二十八日払暁だった。連隊はその日になると、敵を追い詰めて苛酷な行軍を続けた成果が現われ、賓陽という都市を包囲するところまで行った。この日が最大のヤマで、敵をほぼ全滅させるところまで来た。と同時に、私は光熱を出してしまった。マラリア熱である。
 マラリア蚊は姿も大きいが、人間を刺す角度も九十度である。そして、いったん刺されると、三時間ほども経たないうちに猛烈な熱が出てくる。四十度にも昇るという熱である。これで命を落とした兵隊も何人かいた。
 私も、四十度の熱を出した。
 行軍先であるから、野戦病院などがあるわけではない。寝台などはもちろんなかったから、中隊にテントを張り、地べたにムシロを敷いて、ただ寝ているだけである。それも、一人や二人ではない。
 南支であったから、日本の一月よりはだいぶ暖かい。とはいえ、夜になると途端に寒くなる。地面の底からガーッと寒さが這い上がってくるのである。
 熱を下げるには、マラリアの薬を飲むしかない。何時間おきに飲むかは決められているのだが、皆苦しいから、その時間を縮めて飲んでいた。ともかく、氷はないし、とても食物を食べられる状態ではない。もっぱら薬を飲み、ウンウン唸って寝ているだけであった。
 後に知ったところによると、マラリアでは五人に一人くらい死んでいったようである。私の小隊に吉野少尉というのがいたが、この男がやられた。私が死んだ場合のため、常備につけておかれた吉野少尉は四十三度ほどの熱が三日間続き、心臓が耐えきれなくて死んだ。
 普通マラリアは、熱が二日目ぐらいからグンと上がって、三日目頃がピークになっていく。これは個人差があって、熱の期間が長い者と短い者がいるが、ともかく普通は三日目からのピークが分かれ目で、それに耐えられない者は死んでいく。戦闘で疲労困憊していたから、耐久力がなくなるのも無理はなかっただろう。逆に、それに耐え切ると、サーッと熱が忘れたように引いていき、食欲も出てくる。
 マラリアにかかった私は、ともかく疲れ切っていて、何も考える余裕はなかった。家族のことや日本のことを思い出すこともなかった。ただ感じるのは、一生懸命に看病してくれる当番兵に対する済まなさであった。幸い、私は三日間にわたった四十度の熱を乗り切った。
 十六年の四月に帰ってくるまでにはいくつも戦闘はあったが、このときの作戦に対して「近歩二」の連隊は感状をいただいた。宮内省から侍従武官が派遣され、御朝訓を頂戴したのである。 
 もちろんそのときは、帰国し、除隊してから陛下に御理髪係としてお仕えすることになろうとは、まだ夢にも思っていなかった。


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