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父子二代の天皇理髪師
遥かなり昭和
大場 栄一
第四章 陸軍中尉 大場栄一
6

 終戦の御詔勅を聞いたのは、内地より二日遅い八月十七日であった。
 私共の大隊は新街という町に駐屯地があった。本隊に残っていた大隊長はすでに御詔勅を知っており、大隊の全員が揃って聞かなければならないと、召集を掛けた。私よりももっと遠くにいた中隊もあったので、全員揃ったのは十七日になった。
 大隊は全員で七百人ぐらいになったろうか。私の中隊は、海南島に招集されていた兵隊たちが行くところがなく加わってきたので、百七十人くらいに増え、一番大きくなってしまった。終戦時の戦闘で命を落としたのは、高橋伍長以下十一名を入れて計三十七名であった。
 この七百名が駐屯地の広場に整列し、大隊旗が揚げられると、大隊長は陛下の御詔勅を読み上げていった。
「……然レトモ朕ハ趨(おもむ)ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス。……」
 御詔勅を聞いた瞬間、もう駄目だと思った。きっと日本は灰燼に帰しているだろう。家族の安否も定かではない。もはや帰っても仕方ないから、皆で死ぬのなら一緒に死のう……。
 こんな気持ちは私一人ではなかった。間もなく、銃口をくわえ、足の指で引き金を引いて自害する者が出た。やけになって脱走して行ったのもいる。脱走兵は汪兆銘の軍隊に加わる者もいたが、大半は八路軍へ行ってしまった。共産党は宣伝がうまいから、それに乗せられ、後に下士官の伍長くらいまで階級を与えられた者もいる。
 私にとって、御詔勅よりもっとショックであったのは、九月二十九日付けの新聞に載った陛下とマッカーサーの写真であった。陛下はモーニング姿できりっとお立ちになっているのに、マッカーサーはノーネクタイで軍服のボタンをはずし、手を腰に当てている……。あの写真を見た瞬間、腹が立って仕方がなかった。陛下におかれてはさぞや屈辱であられたであろう。私は口惜しくて、こんなことなら、いっそのこと死んでしまったほうが良かったと思ったものである。
 当時、中国の新聞にもその写真は載っていた。ただし、言葉はわからないし、紙質も悪く、写真もぼやけていた。日本から送られてきたのは段違いに鮮明だったが、それだけに改めて戦争に負けたのだと実感させられた。それ以来、気持ちは落ち込む一方であった。 
 終戦直後は、一時、日本軍はお祭り騒ぎのようになった。やけのやんぱちから、毎晩、酒は飲み放題、山海珍味は食い放題であった。山海珍味といっても、軍隊の缶詰が主であるが、地元民からはタバコと交換で野菜や魚を手に入れることができたから、当時の内地とは較べものにならない豪勢さであった。
「内地に帰ったって、ろくなことは待ってやしない、きっとアメリカ兵に殺(や)られてしまうんだ。……せめて今のうちにいいことしておこう」
 兵隊たちはそんな刹那的な言葉を吐いた。さすがに将校はまだ責任感を持っていたから平静であったが、下士官兵に至っては、一応軍規は守ってくれたが、半ば捨て鉢になって明日のことなど考えないようになっていた。
 私がそんな気持ちに染まらずに済んだのは、責任者としての立場があったからだろう。まだ皆、牛蒡(ごぼう)剣も銃も持っていた。だから、いつ喧嘩などがきっかけで暴発しないとも限らない。私は中隊長として、事故さえなければいいと祈るような気持ちだった。
 しかし、こんな生活も長くは続かなかった。敗戦となった日本軍は捕虜になり、広東を流れる珠江の中洲の収容キャンプに全員集められることになった。ちょうど、陛下とマッカーサーの写真を見せつけられた九月下旬の頃である。
 捕虜になれば、当然武装解除をされる。ところが、蒋介石の軍隊というのは、武装解除をした経験がないので、やり方を知らない。奇妙な光景となるが、捕虜になった日本軍が相手方に教えてやりながら、自ら武装解除をして行った。
 まず弾薬を納めて、次に食料、それから衣料……と順々に納めて、丸腰になった。と、それまで低姿勢であった相手が急に威張りだして、日本兵を殴り始めた。立場が逆になったが、我々にはもう武装がなくなったので、どうしようもない。
 中洲に捕虜として収容されたのは、一個師団半くらいではなかったかと思う。一個師団が二万人ほどだから、およそ三万人はいた。ともかく食料から衣料から、日本軍の持っていたものはすべて差し出してしまった。代わって配給になったのは、一日四百グラムの米であった。
 四百グラムといえば、二合少々である。それまでなら、野戦に出ていた大の男達の一食分である。それが一日分と指定されたのである。しかも、おかずは乾燥味噌とか乾燥野菜しかない。たまに土地の野菜が配給になることもあったが、それもなくなった。
 年が明けて二月頃になると、食糧事情はさらに悪化した。中国軍が規定通り支給しなくなったのである。 
 確かに帳簿上は、四百グラム支給したことになっている。ところが我々の手に渡るまでに中国軍の下士官が取る、班長が取る、で結局、二百グラムぐらいになってしまう。
 一日二百グラムといえば、お粥にするしかない。どろどろの重湯のようにして食べるのである。味噌汁の中に乾燥野菜が入っている。その固形野菜を兵隊たちが取りっこであった。寂しい限りである。肉など、まるで支給されなかった。
 唯一の対抗策は、各中隊ごとの自給自足である。中隊長の考え次第で、各中隊はまわりで野菜を植えたりして、貧しい配給を補った。
 私は豚を飼うことにした。千葉の別荘で生活していた時分、私は畑仕事や鶏などの世話をしていたから、多少の心得はある。捕虜生活を送るようになって、私は土地の人間に缶詰や煙草を与えて、子豚を二頭――牡と牝を手に入れていた。
 これが増えた。豚はいっぺんに八頭から十頭くらい産むから、またたくまに十六頭くらいに増えてしまった。実際、私のところで飼ったのは本当によく増えた。おかげで私の中隊は、貧弱な配給にもかかわらず、栄養失調や飢えで参る者はいなかった。
 そのうちに、噂を聞いて他の部隊からも、一頭くれとやってくるようになった。一番(つがい)の豚がこれほど捕虜生活において役立つとは私も夢にも思っては見なかった。 
 珠江の中洲で捕虜生活を送ったのは、結局昭和二十年九月末から翌二十一年四月までの半年余りだった。この間、考えることといえば自分たちの行く末のことであった。
 果たして故国に帰れるのか。それとも、中国兵に殺されるのではないか。そんな不安を抱きながら、中洲の収容キャンプで暮らした。
 そんな灰色の生活に終止符を打ったのは、内地帰還命令だった。その知らせを聞いて、全員、歓呼の声を上げた。私ももちろんであった。が、この帰還の船は、さらに悪い結果を招いたのだった。


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