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父子二代の天皇理髪師
遥かなり昭和
大場 栄一
第四章 陸軍中尉 大場栄一
7

 日本軍は武装解除して捕虜になった段階で、武器から食料まで一切を供出したはずであった。が、主計では秘かに軍の金を隠匿していた。中国側に気付かれずに残してあったこの金は、帰還命令と同時に配られることになった。
 各中隊ごとに配られたこの金を、私は小川という曹長に託し、買い出しに行かせた。小川曹長は兵隊七、八人ほどを連れ、勇んで町に出かけていった。そして、キュウリ、ナス、スイカそれに砂糖などを大量に買い込んできた。 
 私は報告を受けただけで、実際に何を買ってきたかは見ていない。後から知ったところによると、買い出しの一行はその場で生のキュウリを齧ったらしい。半年以上にわたって不自由な生活を強いられてきた兵隊達にとっては無理もなかったであろう。
 LST輸送船に乗り込んだのは、私共の部隊が四百名、それに糧秣部隊の四百名、計八百名ほどであった。買い込んだ食料は、船中で食べるべく積み込んだことは言うまでもない。
 出航の晩は皆、はしゃいだ。ようやく捕虜生活から解放され、故国へ帰ることができるのである。昭和二十一年五月、広東は一足早い夏を迎えていた。
 ところが翌日になると、小川曹長が一転して元気を失くした。そして、その晩であったか、猛烈に吐いてしまった。小川曹長だけでなく、買い出しに行った者全員がそうであった。真性コレラだったのである。
 これはおかしい、と衛生兵を呼んだ。ところが衛生兵ではコレラであるかどうか見分けが付かない。私もそんなことは知りようはないが、ともかく一勢に倒れたのは、何か伝染病ではないかと考えた。
 そのうちに情報担当の曹長がやってきた。 
「実は、買い出しに行った町でありますが、あそこはコレラの発祥地なのであります……」
 その言葉を聞いて、私はことの重大さを悟った。すぐに軍医を呼びにやらせると、海水消毒をしろ、船の一番デッキの中央に患者を隔離しろ、と大変な騒ぎになった。
 患者はまたたく間に増えて五十名を越した。同乗した糧秣部隊のほうは任務柄、糧秣をふんだんに買い込んでいて、思う存分食べてしまったから、被害はもっと大きかった。結局、私の中隊だけで小川曹長以下十一名の犠牲者を出してしまった。
 船は広東から台湾沖を通り、玄海灘を渡って、広島の宇品に向かった。本来なら、ここですぐに故国の土を踏めるはずであるが、コレラ患者が出ているという理由で上陸は許されず、遥か沖合いで碇泊させられた。
 驚いたことに、上陸を許されないのは私共の船ばかりではなかった。帰還船の大半が、同じコレラ菌にやられて沖合で待ちぼうけを喰わせられていた。このコレラ菌が日本に蔓延したら大変なことになる、と水際作戦が取られていたのだった。
 それにしても進駐軍の扱いはひどかった。まるで我々をどうしようもない劣等民族、野蛮人と見下したような態度を取った。船上で、ドラム缶に板を渡して便所代りとさせ、それが一杯になるとクレゾールをかけて掻きまぜるように命じた。それを二時間させる。そして、二時間経ったら、またやらせる。
 私も兵隊と一緒にこれをやった。情けなくなるが、仕方ない。目が届かなかったとはいえ、私は自分の中隊からコレラ患者を出したことに責任を感じていた。
 船は余り長く一か所に碇泊していると、乗船している兵隊たちの気がおかしくなる。そこで北上して青森から函館のほうまで進み、また今度は鹿児島のほうまで戻ってきた。これを繰り返した。
 隔離される患者はますます増えていった。季節はそろそろ初夏を迎え、船の中は暑かったが、デッキの一番いい場所は患者に提供していたので、私共は船倉で寝た。船倉はビルで言えば五階建ての高さの船底に当たるから、居心地がよかろうはずはない。そこに、寝るといっても、足も伸ばせないスシ詰め状態である。もう隊長も一兵卒もなかった。私もそこで兵隊たちに混じって眠った。
 本当に辛かった。戦争に負けて、途端に中国の兵隊に威張られ、今までとは逆にいじめられた。捕虜となって屈辱を嘗め、ようやく祖国へ帰れることになったと思えば、このコレラ騒ぎである。
 一日も早く、故国の土を踏み、家族の顔を見たいと願うのは、乗船した兵隊全員に共通した気持ちであろう。その岸辺は目と鼻の先に見えているのに、上陸を許されない。
 平和を取り戻した町はもはや燈下管制下の戦時と違って、とりどりの灯に輝いていた。その眩しい灯が真暗な海の彼方に揺れていた。ここまで来ているのに、いつあの灯のところに辿り着けるのだろうか。
 それ以前にひょっとすると、自分にもコレラ菌が染まらないとも限らない。そしてすでに命を落とした者と同様、故国の土を踏むことなく水葬に処されていくかもしれないのである。
 そんな兵隊たちの中には、やり場のない怒りを私に向ける者もいた。
「大場はけしからん。コレラ菌を蔓延させた責任は中隊長にある。こんなことがなければ、とっくに上陸しているのに……」
 その一方で進駐軍からは指揮官として、事あるごとに責任を押しつけられる。私は心身共に疲れ果てた。暗い海面を覗き込んでいて、いっそのこと身を投げてしまえばどんなに楽だろうかと考えたことさえある。
 しかし、その誘惑にも負けず、私自身、病気にもかからずに済んだのは、責任者としての緊張感からであったのだろう。
 そんな日々が四週間続いた。 
 船からは、何度か軽症の患者を降ろして、陸上の病院に移した。そんなこともあって、デッキに隔離される患者の数も少なくなった。そして、流行も収まったと認定され、ようやく横須賀の久里浜に入港し野戦重砲兵連隊跡に入った。
 私共は全員、進駐軍立合いの下、検査を受けた。検査というのは、太いホースからDDTを頭からかけられるという荒っぽいもので、頭から爪先まで、真白になった。
「ひどいことしやがる」と、皆口々に憤ったが、コレラ船から解放されて自由になるためと思えば、これも我慢しなければならなかった。誰もが、家に帰りたがっていた。一時は私と糧秩部隊長を「コレラ菌蔓延の責任者」として袋叩きにしてしまえという不穏な動きもあったが格別そんなこともなかったのも、皆、一日も早く辛い思いを後にして家に帰りたかったからだろう。
 上陸してたった一つ、救われたのは、最後に身体検査をした軍医の言葉だった。この人は一人ひとりオチンポを見ては、
「大事にしろよ。これがお国の元なんだからな」
 と言ってくれたのだった。皆、思わずニガ笑いをした。そうか、俺達がしっかりしないと、お国が潰れてしまうんだ……。私は一瞬、そう気を取り直したのを覚えている。
 しかし、戦争が終わって以降、捕虜と輸送船の生活は余りにも苛酷であった。二年半ぶりに故国の土を踏みしめたものの、私は心身共に疲弊の極にあって茫然自失の態であった。
 いつのまにか、私の坊主頭は真白になっていた。昭和二十一年五月、ようやく三十七歳を迎えようというときであった。


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