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父子二代の天皇理髪師
遥かなり昭和
大場 栄一
第五章 〈大場〉再興

5

 完成すれば日本一の駅ビルになるというので、民衆駅すなわち新宿ステーションビルはなにかと話題を呼んだ。当然、出店希望者も多い。理容のほうは出店申し込みが二十三件に及んでいた。
 審査によって次々と篩(ふるい)にかけられ、四軒が残った。新宿伊勢丹理髪室、有楽町で店を持つK、川崎駅ビルに店を出していたYさん、それに私であった。この四軒からさらに絞ることになったが、店の規模では私はとても敵わない。私には宮原常務という強い味方ができたが、Kはもっと手強い。というのは、浜野さんが古くから家族ぐるみでKの店の顧客であったからだ。このままでは、私が選考に落ちるのは目に見えていた。
 私の出店希望を聞いて、宮原さんのほかにも力になろうと申し出て下さった方が何人もいらした。有難いことである。皆、父の代からのお客様でいらした。私は、最大限の努力をして、運を天に祈り、結果を待つことにした。
 毎朝私は、五時になると一番の都電に乗り、大場家の菩提寺がある狸穴に向かった。狸穴の一乗寺には父が眠っている。
 かつて陛下にお仕えしていた時代は父も私も、参内する朝には必ず冷水を浴びて身を清めていた。その父は亡く、私は〈大場〉の再興を画して、新宿ステーションビル出店に挑んでいた。私はぜひとも、この出店を成功させたかった。父の時代の〈大場〉の栄光を取り戻すには、絶対にこの機会を逃がすわけにはいかなかった。
 どうか、力をお与え下さい……。
 父の墓の前で合掌し、私はそう祈った。
 お百度参りが通じたのであろうか。とうとう、私の出店が認められた。が、Kはどうしても降りない。そこで駅ビル側では仕方なく、地下一階と七階に二軒出店を許可することにして、先に私に希望を求めてきた。
 もちろん、私は下の階を選んだ。するとKは七階では自信がないと、自分から降りてしまった。こうして駅ビル出店が正式に決まった。昭和三十六年十二月二十八日であった。駅ビルの準備が始まったのは三十三年であり、開業したのは東京オリンピックの三十九年である。
 出店の権利だけは獲得することができたが、開店に至るまでは容易ではなかった。宮原さんのご紹介で新宿の三菱銀行に口座を開くことができたものの、ともかく金がなかった。そこで差し当たって二万円を入れておいた。
 すると、数日後に銀行の支店長と副長が来られ、駅ビルに入るからにはもう少し入れておいてもらわなければ困るという。どのくらいかと聞くと、「五百万円ぐらいはいかがなもんでしょうか」と事もなげに言うのである。
 困ってしまった。とてもそんな大金はない。駅ビルには東京のみならず大阪、京都の一流店が出店することになっていた。私のところは技術は一流のつもりでも、いったんゼロになって青山の椅子四台の店でようやくカムバックを始めようとしている最中である。しかし、この機会を逃しては〈大場〉の再興は夢のまた夢になってしまう。
「これから毎月五万円ずつ積んでいきますから、どうにかなりませんか」
 と、食い下がった。このときは宮原さんが私の信用を保証して下さったおかげで、新しくできる店を担保とするだけで銀行から全額借り、毎月五万円以上ずつ預金するという特例が認められた。
 第一回目の払い込みは、出店が正式に決まった昭和三十六年十二月の三十一日。そのときまでに払い込みができなければ出店の権利がなくなってしまう。しかも開業するまでの二年間は、青山の店だけで毎月五万円を積んでいかなければならない。時に家内の着物を質に入れたりして、本当に苦労したものである。
 開店に当たってはタカラの吉川秀信社長がずいぶん力になってくれた。吉川さんは私が資金のないのを知ると、支払いは後払いでいいから、椅子を初め設備什器一式すべて最高のもので揃えましょうと言ってくれた。それというのも父が秀信社長と深い親交があったからで、ここでも改めて父の威光と有難味を感じた次第である。
 駅ビル店は椅子十六台の店であった。これだけの店になるとスタッフ集めだけでも大変だが、有難いことに父の名前があったから、一流の人材が自分の店をたたんでまで来てくれた。そういう人たちが助けてくれなければ、とてもあれだけの店はできなかっただろう。本当に感謝している。
 あの時分、理容料金の相場は三百円であったが私のところは六百円とした。周りの業者は「落ちぶれた大場があんなに高い料金でやって、潰れるに決まっている」と陰口を叩いたらしい。私はそんな声に挑戦するかのように、開店二か月後には七百円に上げた。
 新宿ステーションビルが開業した昭和三十九年五月は東京オリンピックを迎え、高度成長期に入ろうとしていた時期である。新宿は大変活気があったし、日本一の駅ビルと報じられたものだから、店は予想以上の好況であった。
 この年の暮れ、駅ビル店で、お客さんが待合室に入り切らず、行列を作っている光景がテレビで紹介された。一人で一日に十人やるだけでも大変だが、あの頃は一日十四、五人から多いときは二十人をやる椅子もあって、お断わりするにも困ったくらいであった。おかげで、借金も十年くらいで完済できた。
 駅ビル店は、まさに〈大場〉復興の大きな原動力になった。これが実現できたのも、ひとえに宮原さんのご尽力の賜である。
 宮原さんは毎朝出勤して来られると、必ずご自分で地下から七階まで二百五十ある店を見て廻られ、気が付いたことがあると注意された。大変、仕事熱心な重役でいらした。また浜野さんも腰が低い方で、このお二人は一丸となって指導されていた。あの時分の駅ビルは文字通り「日本一」にふさわしく、活気に溢れ、輝いていた。
 昭和四十一年、宮原さんは駅ビル竣工二年後にして癌に倒れられた。お宅に駈けつけると、奥様が「主人はいつも大場さんにやっていただいておりましたから、どうか顔を剃ってやって下さい」とおっしゃられた。
 私はこみあげる涙を抑え、最後の仕事をさせていただいたのだった。


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